生きづらさをやさしさに変える くにい かつひろ

繊細すぎて苦しかったその生きづらさこそが、人を癒す力になったと感じてます。 くにいかつひろ

人の期待に応えて生きていると、嫁から嫌われる

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僕は、人の目を気にして生きてきました。

35歳になって、人の目を大分気にしなくなってきたのですが、それでも、人の期待に応えようとしてしまうことが結構あります。

人から好かれようとしてしまう、ということです。

それに対して、今日読んでいた本のなかに、非常に辛辣な言葉が書かれていたので、今日はそれを書きます。

アドラー心理学 実践入門〜「生」「老」「病」「死」との向き合い方〜』という本のなかに出てきたのですが、

「他人の期待に応えようと生きているのには目的がある」

というようなことが書いてありました。(文を探したけどなんだか見当たらない)

どんな目的かというと、

「責任を自分で負わないようにしている」

と言うのです。

これはすごい。

痛い。

・・・・そうなんです。

他者の期待に応えて生きていると、
自分で責任を負わずに済むのです。

期待をかけた人のせいにできてしまう。

それって実はすごく楽。

最近ではこんなことがありました。

僕が仕事から帰ってくると、真っ先に子どもを寝かせるために歯磨きやら着替えやらを担当します。

その間、僕は自分がやりたい、やるべきことができないわけです。
だから精神的に余裕がない時にはどうしてもイライラします。

「仕事から帰ってきて、自分のやりたいこともできないのか・・・ギターも弾きたいし、家計簿も記入したいし、ブログも書きたいのに。。。」

みたいな気持ちになって、妻を責める。

じゃあ、自由な時間がもらえたりした時に、想定していた自分がやりたいことを嬉々としてやるかというと、意外とやらない。

そして、やらないでいると、
「あ〜こんなに時間があったのに、なんで無駄に過ごすんだ」
と自分を責める。

上記を見ていると、妻を責めるか、自分を責める、なんですね。

そして、妻を責めている方が、100倍くらい楽。

自分を責めてる時のが、俄然苦しい。

そういうことなんだとおもいます。


「妻のせいにしたいから、期待に応えるように行動してしまう。」

妻のせいにすることが目的になっているのだとおもいます。

じゃあ、妻の期待に応えないようにするためにどうすればいいのか、ということを考えて、子どもの世話は妻にやはり任せる、という風になるのは違うと思います。

要するに、どんな行動も、妻が期待していようが、世間が期待していようが、社会が要請してこようが、要は、

『自分で選択した行動なのか』

ということが問われているのだとおもいます。

妻は妻の都合で、勝手に期待しているのであって、それに応じて僕が行動するのは、
「反応的」な行動であって、「主体的」行動ではない。

あちらさんは、あちらさんで勝手に期待をしてるのです。

ほっておきましょう。

僕が子どもの歯を磨くことを選ぶのです。

ちょっと面倒だけど、子どもの歯を磨く。

そして、絶対に妻のせいにはしない。

だってなんか妻のせいにするのは、カッコ悪い。


こんなちっちゃなことですが、日々の家族との生活では、こういうことひとつひとつのメンテナンスが実は非常に重要だなと。

そう感じました。


そして、子どもたちや、不登校の子たちにも伝えたい。

親や、先生の期待に応えようとする、というのは、
親や先生のせいにしようとしているかもしれない、のです。

勉強する、学校に行く、遊ぶ、ゲームをする。

誰のせいにするでもなく、その行動を自分で選んでしまおう。


おさらいです。

『他人の期待に応えようとする、というのは、
他人に責任を転嫁する、という目的からおこなっている』

ということですよ。

くにいくん。わかりましたか?





フウフカイギ議事録 Vol.1 〜ファッションとは自己肯定ではなく、自己受容である〜 「自分らしさ」と「不登校」に関する考察

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仕事から帰って、夕飯を食べ、子どもたちを寝かせてから、洗濯や後片付けなどをし、0歳児を抱っこしながら妻といろいろと会議をする、というのが、ここ半年くらいの定番です。

障害福祉の仕事で、夜勤も週1、2回あるので、その日はできませんが、それ以外の日の90%以上、妻と会議をしています。

今日の出来事について
仕事について
子育てについて
家族について
日本の教育について
不登校について
現代社会について
人間とは何かについて
ビジネスについて
未来について
日本について
男と女について
ゴミ捨てを忘れてしまった使えない夫について
はいはい言いながら何もやっていない使えない夫について
要領の悪い使えない夫について
人生について

などなど、古今東西、ありとあらゆるテーマで面白いことがないか、と話し合っていて、意見を交わします。

これが本当に面白い。

なので、ブログに書く内容も、実は妻がおもしろいことを言っているのに、さも僕が発見したかのような論調で書いていたりするのですが、
出典は國井嫁でした、ということがあったりします。

そういうのも、なにやら気が引けるので、このような「フウフカイギ議事録」というシリーズ物にして、おもしろい内容が話題で出た時には、フウフカイギ出典です、ということで、僕のブログで書いてみよう、という話になりました。

前置きが長い。

では、フウフカイギ議事録Vol.1、行きます。


先日、國井一家で、関東入りしていました。

父が入院していて、死ぬ前にお見舞いに、という縁起でもない趣旨でしたが、知り合いのヘアメイクアーティストの方に、ちょうど良いから(なにもちょうど良くない)一家全員のヘアカットをお願いしてみようと思い立ち、行ってみました。

その中での話が非常に面白かった。

そのヘアメイクアーティストの方が「自分らしさ」ということを何度か口にしていたので、妻から「◯◯さんにとっての自分らしさって何ですか?」
キラーパスを出していました。

すると、その方は、僕の髪を手のひらで触りながら、

「僕は自然が好きなんだよね。例えば、この子(おそらく僕の髪の毛たちのことを指している)がいるとするでしょう。この子が行きたい方向が必ずある。だからその方向に行かせてあげる。それをやること。その子が自然な姿になる、ということ。それが自分らしさだと思う。」

これを聞いて、僕と妻は
「お〜〜〜!」と、唸りました。

これは、「自分らしさ」について、かなりすごい定義をしているように思いました。

答えは、「本人の中にすでにある」ということ。

自分が行きたい方向に気づけていないだけで、自然な方向に行ければ、それこそが自分らしくいられている、ということ。

これは衝撃でした。

そのヘアカットにもまさに体現されていることにも、驚きでした。

以前妻がカットしてもらっていた時に、「このつむじの流れから行って、この髪はこっちに行きたいんだよね。だからそうしてあげる」と言っていたのです。

それを僕の髪でもやってくれた。

僕のヘアセットが完成した時に
「自然〜〜〜」と妻は一言。

僕も見てみると、驚くほど自分にしっくりくる。

この後、駅の鏡や、ビルのガラスに映る自分を見て、びっくりしたのは、

「あ、これがくにいだ」

と感じたということです。

今まで、鏡を見ると、だいたい髪をクシャクシャとやって、ボリュームを出させて、自分を少しでも良く見せようとするところがありました。

それだけでなく、自分の顔の嫌いで隠したい、目立たせないようにしたい、エラの部分、顔が大きいことなどを気にならないようにしようと髪を整えたり、などしていました。

ですが、それを全くしたいと思わない。

「これこそ自分だ」

と思える髪型、というか顔、というか姿なのです。

という話を、夜、フウフカイギで話題に出しました。

妻はその日、そのヘアメイクアーティストの方に、メイクも教わっていました。
その中で、
「自分を着飾る、というよりも、自分を受け容れる、というプロセスのようだった」
と妻は回想していました。

これはおもしろい。

僕らの中でファッションに対する価値観がガラッと変わる瞬間でした。


ファッションとはもしかすると、

「自分を良く見せようとする」

ことなのではなく、

「自分らしくなるということ」

さらに言うと、ファッションとは

「自分になる」

ということなのかもしれない、と気付きました。


僕の好きな心理学用語的に言い換えてみると、

ファッションとは「自己肯定」ではなく、「自己受容」のプロセスなのかもしれない。ということです。

「自己肯定」は、自分のことを「良いもの」「正しいもの」という形で少し強引に自分に言い聞かすようなニュアンスが含まれると僕は感じています。

「自己受容」は自分の自然な姿、良いも悪いも含めた自分こそ自分なのだ、という感覚。

「ファッションとは自己肯定ではなく、自己受容である」

ということです。


しかし、髪が「自分らしく」なることで、その人自身も自分らしくなっていく、というのがすごい。

ヘアメイクで、自己受容が深まることもあるのだな、と驚かされました。

自分らしくいる、ということは、あるがままの自分でいられている証拠、とも言えますね。

「自分らしくいられる場所」というのは、無理をせず、自分のままで安心できる場所、ということ。
自分以外の何者かにならないと、いられない場所ではなく、そのままでいられる場所。
子どもたちには、ぜひそういう場所を見つけ出したり、作り出してもらいたい。

不登校で考えると、

「学校にいると、自分らしさがどんどん無くなっていってしまう。だから、
『自分になるために不登校になる』」

とも言えるかもしれません。

「子どもを社会に適応できる人間に成長させる使命」が学校にはあります。
だから、それが行きすぎた時に、「自分らしさを剥奪してでも社会に適応しようとする」子どもが出てきてしまい、その子達が不登校になる。

この構図は、、、、確かにある。


僕はここ10年近く、妻にしかヘアカットしてもらっていなかったので、久々にプロに切ってもらいました。

髪を切ってもらうだけで、これだけの気付きがあるのはすごい。

プロの仕事はすごい。

フウフカイギもすごい。。。。。ということにもしてしまおう。

でも、今回のブログのタイトルは長すぎました。


(注意書き)
僕は自己受容と、自己肯定を分けて考えていますが、様々なカウンセラーや精神科医、心理学者などが使っている自己肯定感について、大いに賛同する使い方も多いですし、最近は乙武さんが自己肯定感を中心テーマに据えた本を書いていたように、自己肯定という言葉を良くない、とは言いたくないです。
ただ、厳密に考えると、自己肯定は誤解を生むような使われ方をされやすいと感じていて、より自己受容の方がしっくりくる、ということです。


若者よ。「自分マスター」にジョブチェンジしよう。〜N高等学校について語る〜

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最近、書きたいことがありすぎるのですが、
書く時間が取れないため、なかなか投稿できずにいます。

アウトプットできず、糞詰まり状態ですが、
しっかりインプットして、自分の中で消化して化学反応できてる状態のような気がするので、心持ちは良いです。

今日は、とくにプランなく、書き始めてみよう。

今、ネット検索の広告とかでやたら出てくる、

「N高等学校」

株式会社角川ドワンゴが作った学校法人が運営する通信制の高校です。

理事には、ジブリの鈴木プロデューサーが入っています。
高校設立に向けて、将棋の羽生さん、文科大臣補佐官の鈴木さん、元Microsoftジャパン代表の古川さん、ゲームのファイナルファンタジー生みの親の坂口さん、歌手小林幸子さん、などそうそうたる面々のインタビューも、この間、載ってました。(今、なぜか短くなってしまい、以前のものが見れなくなっている。。。書籍化されるのかな?)

噂では、文科大臣補佐官の鈴木さんが名誉理事長就任かみたいな意見もありますが、にわかに盛り上がりを見せてます。

みんなは、この通信高校にどんな印象を抱いているのだろう。

僕はこの流れ。完璧に「推進派」です。
これは、絶対おもしろい高校になる。

3年前くらいに嫁から、「ものすごいおもしろい人がいる」ということで、ニコニコ動画ドワンゴ社長の川上量生さんと羽生善治さんの対談動画を見て以来、川上さん大好きになり、以後その動きに注目していました。

その後、ジブリの鈴木プロデューサーの鞄持ちをやったり、現在は角川も合併された、角川ドワンゴ代表取締役になってます。

そして、今回、高校を作る。

川上さんがこのN高等学校設立の趣旨について、
不登校の人たちは、ネットに逃げ、ネットに救われて、これからのデジタル時代に適性がある。そういう人たちが日本の隠れた財産として眠っている」と語っていたようです。

よくぞ言ってくれた、という感じがあります。

News Picksでの川上さんの記事を見ると、スゴイです。
おもしろい。

「人間は基本的に逃げて逃げて、逃げた先に新天地を作り進化してきた。不登校とか引きこもりも、その先に道が続いていればいい。その道を作ります。元にいた場所に戻ってまた戦えというのは、残酷すぎる。」

というようなことが書いてあり、激しく同意。


そして、この高校のキャッチフレーズ「ふつうの高校生になってどうするの」は最高ですね。

本当に、どうするの?って感じです。

数年前には、スマホがこんなに世間を席巻するなんて、だれが予想できたでしょうか?

5年後、今やっている仕事が存続しているかも疑わしい時代に、旧来の教育に染まってる方が不安。

自分の飯の種は、なににするか。

高校生になったら、そこと真剣に向き合っていいと思う。

というか、大人も自分の飯の種はこのままで大丈夫なのか、というのは考えざるを得ない時代ですよね。

ぼくが考える対策は、

「自分マスターにできるだけ近づいておくこと」

だと思ってます。

どんな職種がのこっていても、自分をマスターしておいて、その自分を職種に近づけていく。

自分の好きなこと、得意なこと、だれに言われなくても勝手にやってしまうものなど、自分の長所。
逆に、やってもやっても身に付かないこと、何が何でもやりたくないもの、など苦手なこと。
これらを突き詰めて知っておくこと。
それが、何年後か仕事に就く時に、どんな業種に自分の身を置くか、という選択の根拠になってくると思う。
自分を最大限に活用できる場に就くこと。
あるいは、そういう場を作り出すこと。
それがしわあせに働く上での近道だと思います。

それには、自分をマスターしておくことが重要。
そして、自分の特性に応じて、自分のどんな部分を強化していくかを考えていくこと。

ドラゴンクエストⅢで考えると、
性格が「ちからもち」だったら、やっぱり「戦士」か「武闘家」をめざすために、「ちから」が強化されるように、「ちからのたね」を使っていく。
たとえ、「戦士」と「武闘家」という職業がなくなっていても、その「ちから」が生きるような場を探したり、業界的に「ちから」が不足している、「魔法使い」の世界に入って、自分の「ちから」の能力を欲してもらえる場に行ってみたり。

とにかく、「ちからもち」の自分を知らないことには、自分を活かそうにも、活かせない。

だから、「自分マスター」は重要だと思ってます。

ですが、ここで、ポイントなのが、
ふつうの学校では、
「勉強」と「部活」という場で、「大学受験の知識」と「運動能力」という二つの能力向上の場しかなく、
それ以外の能力を注目し、伸ばそうとすることは、あまりないと思います。

北星学園余市高校の校長が「今の中学は部活と勉強以外、子ども達に提供するものがない」と言っていたことが衝撃でしたが、その通りですよね。

そして、この「勉強」と「部活」で手にしたもの。

はっきり言って、ぼくの仕事にはほとんど役に立ってない。

役立ってるのは、高校での寮生活での対人関係スキルだったり、恋愛を通して学んだ自己内省力とか、友達の相談に乗ることで知った人の心理についてだったり、家族関係の根の深さについての知識とか、です。
高校が直接提供してくれたプログラムというよりも、高校生活に伴う副産物が、今の自分の仕事につながっている。
そして、上記に記していて気づきましたが、ぼくは、「人間関係」にかなり興味を持っていて、そこから派生することに、異様に意欲が向いていて、経験を積んで学びを深めていたようです。

あるアメリカの中学の話ですが、
ものすごい荒れ狂っていた不良少年がいて、彼は勉強が全くできませんでした。
ですが、本人の夢を語ってもらった時に、「プロボクサーになりたい」という夢を語ったそうです。
そこから、当時関わっていた先生が、ボクシングの雑誌を教科書代わりに渡して、
ボクシングのリングのロープの長さを測って、リングの面積や体積を求めてみたり、
ボクシングの歴史を勉強してもらうのと並行して、アメリカや世界の歴史をリンクさせながら学ぶようにしたそうです。
すると、一気に勉強ができるようになった。
それだけでなく、すぐに人に暴力を加えていたのに、自分の心をコントロールする術を少しずつ身につけていった、とのことです。

自分の好きなことをやることのパワフルさを感じる。

じぶんが好きなことに正直でいることは、大切ですね。

N高等学校のカリキュラムで、じぶんを知って、その中から「そしたらぼくは、かしこさのたねがたくさん手に入るこの授業を受けるようにしよう」という感じで、自分の能力を自ら主体的にカスタマイズしていくことが、非常に大切。

あと、N高等学校の紹介文の最後に

「脱フツウ」

とありました。

これはキタ。

不登校の人の大多数は、ふつうから外れてしまったが故に、「ふつうに戻りたい」と願う傾向にあります。

これは、不幸へ舞い戻る考え方だとぼくは考えてます。

「ふつう」になれれば、社会に所属できて、
月並みな幸せを手にできる。

そう不登校児は信じてます。

でも、それはない。

ないです。

自分の外にある、なにやら「ふつう」とされるものになろうとするのは、間違い。

そうではなく、

「自分マスター」になるのです。

究極に「自分」になる。

ここを目指すべき。

得意な部分。
すごく変な部分。
意外に突出してる部分。
超欠けてる部分。
いたって平凡な部分。

それら全部が、、、「自分」だ。

この「自分」からスタート。

外にある「ふつう」に向かうのでなく、
すでに内にある、「自分」でスタート。

ですね。

N高等学校で、「フツウ感覚」を手放して「脱フツウ」をし、「自分マスター」になる。

これはいい。

不登校の子たち、ほとんどみんな、この学校に行けばいいんじゃないか。

でも、この高校。
蓋を開けてみたら見事に大コケこいた!
てなことも考えられますな。。。。。

でもぼくはそれでもいいと思う。

大コケこいた、という経験を売りにしてしまって、新たな一手を指せばいいだけ。


最後に一点だけ、N高等学校に注文つけます。

不登校の人は感受性が強くて、人との関係に傷つき、学校という集団から離れています。
そして、ネットやゲームに長時間を割く。

一見、対人関係が下手で、人と関わる仕事が苦手そうです。

実際、アスペルガー症候群のような発達障害に起因して、集団から離れてしまうことになった人は、確かに人と関わる仕事が苦手な場合もありますし、こういった人は結構な人数いると思います。

ですが、先述したような「感受性が強くて」パターンの人。

この傾向の人は、対人関係に関する潜在能力はかなりのものを持っています。
なにを言いたいかというと、
「対人援助職」に適性があるということです。
彼らは「やさしい」です。
これは、根本的に必要な特性で、そこを楽々クリアしている。
そして、感受性が強いということは、弱っている人の心を敏感に感じ取れる、非常に感度の高いアンテナを、彼らは保有している。
さらに、不登校という経験は、自身が支援される当事者になる、という経験です。
障害者や高齢者など、社会的弱者のつらさや、支援されることに伴うプライドの揺さぶられに対しても、思いを馳せることができ、より寄り添うことができます。

あとは、不登校児は自分を受け入れてもらえる環境からゆっくり元気になって自信をつけていければ、かなり優秀な人材になると、ぼくは踏んでいます。

福祉は人材難です。

そこに来て、全国12万人いる小中学校の不登校児は、ずいぶんな宝の山です。

だから、不登校児が、N高等学校経由で、福祉の大学、短大、専門学校につながる流れを絶対に作るべきなのに、福祉や、看護、心理系の対人援助関連カリキュラムが見当たらない。

これはもったいないです。

ということで、川上さんに提案。

   ↓
N高等学校
   ↓
福祉系大学、専門学校

の流れ。

作ってください。




この記事トップの写真は、洞爺湖です。

この日は珍しく、濃い霧が立ち込めていたので、
まるで、雲海のようでした。


「信念」とは。 僕が考える信念の意味。

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信念という言葉の意味を調べてみると、

 

「正しいと信じる自分の考え」

 

と、あります。

 

揺るぎない、自分の考え。

疑いを持たない。

なんかも書いてありました。

 

これだと、ちょっと、誤解を感じるというか、

正しいと感じていて、間違っていても、それを崩せない状態になっている気がしてしまいます。

これはちょっと危ない状況で、

「信念を貫く」

ってかっこよい印象を受けますし、

信念を曲げるなんて、ちょっと意志が弱い人、みたいに感じます。

 

でも、実際自己受容がきちんとできている人は、

自分が間違っていることを他人から指摘されても、

防衛的になるわけではなく、

「・・・たしかに、その通りです」

と受け容れることができる。

 

こちらの方が俄然かっこいい。

 

それに、しなやかな「強さ」も感じる。

 

僕は、「信念」というものを二つに分けられると思っていて、

 

「無意識の信念」「意識的信念」です。

 

「無意識の信念」は、生きてきた環境の中で、親、兄弟、学校の先生、地域の人、友達、テレビの情報、教科書、本、その他もろもろの情報を自分なりに感じて、

「およそ、世界ってこんな感じで、人間てこんなもので、自分はこういう人間だな」

という漠然としていつつも、非常に強固な考えを手にするように感じます。

 

その「無意識の信念」に自分という人間は結構しばられている。

 

「意識的信念」は、先覚者と言われる人によく見られます。

ガリレオ・ガリレイ

「それでも地球は回っている」

とか、

吉田松陰

「かくすればかくなるものと知りながら止むにやまれぬ大和魂

です。

時の法律に背けば命を落とすことも百も承知なのです。

でも、「止まれぬ(やまれぬ)」のです。

止まらない。

自分の中に止められない、背けない、自分の中の信念。

これが、僕が感じている、意識的信念です。

 

ぼくらは誰でも、自分なりの「無意識な信念」を形成していると思っていて、

それをちゃんと意識化して、もう一度見つめ直すことが生きていく上で、非常に大切なことだと感じます。

 

そして、信念にはもう一つ隠れた意味があると思っています。

それは、信念という文字を分解すると見えてきて、

「念」、は「今」と「心」に分けられて、

「信」、は「人」と「言」に分けられます。

ということは、

 

「今の心を人に言う」

 

となります。

 

これはやばい。

 

現代に生きる僕たちは、

「今の心を感じる」ということをできるだけしないようにして、

感覚を麻痺させることによって、社会や学校に適応させている、

と僕は感じています。

 

だって、「今の仕事、やっぱりつらい」とか

「学校、苦しい」と感じたら、

退職とか、不登校になる。

 

これは、自己価値観を大きく揺るがされることになる。

 

だから、「感覚を麻痺させる」というのは、現代を生きる非常に有効な手段だと思ってます。

みんな無意識にやっている。

 

そこに来て、「信念」という言葉は、「今の心を人に言いましょう」とメッセージを送ってくる。

 

今の心を感じてあげる。

 

そしてそれを、一人称の「人」、「自分」に言う。

宣言する。

「私は今、つらかったんだ」

 

と。

 

そして、それを二人称の「人」、信頼できる「他者」に言う。

 

「私は今、つらいんです」

 

と。

 

そして、最後に三人称の「人」、「その他大勢」に言ってみる。

 

「私は今、つらいです。」

 

こうやって人に自分の気持ちを伝えられるようになることは、

ものすごく自己受容を促進させると思います。

 

それだけでなく、他者ととても良い関係を結ぶ上でも、

自分の心を明らかにしていくことは、大変重要なことだと思ってます。

 

「つらい」だけでなく、「今私はこう感じてます」ということは、とても、とても良い感じがする。

 

これは、このブログの題名「リアリティは突き詰めればつきつめるほど、自分にやさしい」と、ピッタリ一致しています。

今の心を人に言う、というのは、リアリティを突き詰めることです。

そして、それは、自分にとってやさしい。自己受容を深めることにつながる。

他者ともつながれる。

 

 

そして、ガリレオや、吉田松陰のように、自分が「これだ」と思う信念を持つこと。

自分の中にあらがえない、信念が生まれること。

これはすごいし、ある意味、羨ましい。

 

自殺に向かう若者を大量に生み出す社会を絶対変えたい。


これが僕の信念です。

と言いたい。

かっこつけたい。

 



もうひとつ感じることがあって、先ほど書いた、「無意識な信念」によって、

自分を苦しめる、「自己否定システム」が自分の中に形成されて、

自殺に突き進んでいる。そんな気がする。

 

先日、九州からこの北海道まで訪れてくれた友達家族が、すごいギフトをもってきてくれて、

「監視の内面化」という言葉を教えてくれました。

この言葉の意味するところの深さをまだ僕は扱いきれないので、さらっと説明になり恐縮ですが、

ようするに、社会だとか、他者が監視する目を自分の中に組み込んでしまうこと。

これが現代かなり進んでいる、と友達は言っていて、ぞっとしました。

 

でも、実感ある。

 

この仕組みで、昔戦争へと、民衆が突き進んだように感じる。

 

先ほど書いた「自己否定システム」ともつながる。

この「監視の内面化」「自己否定システム」を、今の子どもたちに植え付けてはいけない。

 

「無意識な信念」「意識化」して、「今の心」「人に言う」

 

「信念」が自分を救ってくれて、

 

子どもを救う気がしてます。

不登校という爆発力の事例 シールズ奥田愛基さん

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我が家にはテレビがないため、今の話題に疎いところがあります。

若者の学生運動のシールズも、友達がフェイスブックで取り上げている内容の断片しか知らなくて全然わからなかったのですが、そのシールズの中心メンバーの奥田愛基(あき)さん。

僕が大尊敬している、奥田知志(ともし)さんの息子さんなんですね。


僕、愛基さんだと知らずに、5月のブログに愛基さんのこと書いてました。


ここに、その愛基さんが不登校していた時のこと、書いてます。

そうだったか。

ネットで、いろいろと奥田愛基さんのこと見てみましたが、なるほど、すごい。

明治学院大の4年生。

彼を賛美する声も、罵倒する声も、かなりの圧力で書かれている。

その数も半端じゃない。

みんな、彼の何に、触発されているのだろう。

ものすごい共感をしたり、
ものすごい反発をしたり。

とにかく、なにやら、すごいエネルギーの中心に愛基さんがいるようですね。

お父さんの知志さんについても、ブログにかいてました。


すごい牧師さんです。

ぼくなんか、大尊敬してます。

その父について語った愛基さんの言葉がすごい好きです。


「よく想像してみてくださいよ。家の中にマザーテレサが居たらウザくないですか?」


・・・・最高。

たしかに家族には、濃すぎる。


こちらを見ると、おもしろいです。

とにかく、注目の23歳。


そして、

中学不登校  ⇨  田舎の高校  ⇨  おそらくキリスト教指定校推薦で明治学院大学に入学。


これって、、、ぼくと、全く一緒の流れです。

キリスト教指定校推薦というのは、試験無しで、面接のみで入れるという、裏口入学のような入学方法で、ぼくは、高校時代の成績が良かったので、運良くその枠に潜り込めました。

不登校して、勉強をやってない人にとって、まともに受験して大学目指すのは、至難の技で、ぼくが大学に入るにはあの手法しかなかったなと思っていて、おそらく、愛基さんも同じような状況だったのでは、と推察します。

愛基さんのことをかなりバッシングしている記事やコメントも見かけましたが、それだけ気持ちを逆なでできるだけのことをしている証明であり、それは・・・・凄いことだとおもう。

そして、若者たちが、こぞって付いていっている姿や、なにやら大人たちも巻き込まれてなのか、利用しようとしてなのか、著名人たちも、乗っかっていったりしていて、それまた凄い。

殺害予告とかもされてるようですし。

今や、「奥田」とグーグル検索窓に入れると、
奥田愛基
と3番目に表示されます。


不登校を経過すると、骨太になる人って、、、、いますね。

上記に引用した、ダイアモンドの記事。

その題名が、

「学校教育に洗脳されなかった」

です。

ぼくは、不登校について発言していく時に、
今の学校教育批判をあまりしないようにしようと、注意しているので、あまり書きたくないのですが、
この
「学校教育に洗脳」
って、若干あると思ってます。

「洗脳」って、おだやかじゃないですが、

「学校教育に適応してると、『染まる』」

というのはあると思っていて、

「自ら考え、答えのない問いに立ち向かい、打開する。」
こういう力は、今の公立の学校で普通の学生してたら、育ちにくいと思います。

それよりも、

「我慢して、嫌なこともやる。」

とか

「言われたことを、忠実にやる」

とか、そんな能力が身につきやすい。

小学校1年生から、その訓練のような側面を感じる。

要するに、

サラリーマン。
公務員。

これらの職業を目標にしているように感じる。
安定的な働き口と、はた目に見える形。

それに向けて、我慢の練習、指示に従う練習。

子どもたちの自己受容感とか、効力感とかは、あんまり考慮に入っていないように感じる。

子どもへの信頼があまり感じられない。

それこそ、起業家とか芸術家とか、公立の学校の先生たちは全然想定してない。

だから、愛基さんのような人が生まれるには、不登校のような環境って染まらないでいられるから、もってこいかもしれない。

そうなると、不登校って、ますます国にとって迷惑な存在だな。。。。


不登校への風当たりが強くなりそうですが、
まだぼくのブログでは、全く影響力ないので、今なら書いておいても良いでしょう。

でも、愛基さんには、いつか会いたい。

ぼくが目指している、

「自己受容が深まって幸せな子どもを大量に作り出す」
「子どもを信頼する大人を大量に生産する。」

この目標に対して、なにか力になってくれるのではないか。

僕から、愛基さんへ伝えたいことは、
ガンジーの言葉です。
インドの奴隷制度のカースト制度を変えなくてはいけないと、18歳のガンジーは、将軍に直談判に行きます。
「この国は間違ってる、だから、変えます」
ガンジーは言ったそうです。
それに対して、将軍は、
「どうやってやるんだ」と問うたところ、


「あなたの力を借りて」


ガンジーは言ったそうです。

この言葉を知った時、僕はひっくり返りました。



愛基さん。

阿部首相に、

「この国を変える。あなたの力を借りて」


と言ってみ・・・・・・・ても無駄か?(笑)




最後に、愛基さん曰く、うざいマザーテレサ的親父の奥田知志さんの今の言葉がやっぱり好きだな、ということで、引用させてください。

こんなふうに、真摯に生きてくぞ。






信頼と信用の違い

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今日は、喜茂別神社という所で、動画配信コンテンツの『B-tv』の撮影をしました。

ぼくが最近考えていること、それの本気をフルで出させてもらって、さらに過去の恥ずかしい恋愛話をなぜだか披露し、今の妻が大好きだと叫んでみたり、若干カオスでした。

これがオンラインで無制限に配信されるということがどういう結果を生むかが、かなり、、、、かなり、、、、謎。

でも、自分を出してしまう、というのは、それだけで心地いいものですね。

先日は、『生きづラジオ』というものにも出させていただき、こちらも本当に楽しかった。

みんな、なにか今の世の中に「風穴」を開けようとしている感じがする。

楽しくなってきている気がする。


この前の日曜日に娘たちと近くの図書館に行き、本を借りてきました。

夜寝るときに、娘に必ず本を読み聞かせていて、その本をなにか大人も楽しめるものを、ということで、子どもも読みやすい伝記がいいのでは、と嫁と話していて、それが実現しました。

今回借りたのには、10人が出ていて、初日は、ヘレンケラー、ファーブル、ライト兄弟を読みました。

その中でも、ライト兄弟がめちゃくちゃ面白かった。

兄が11歳、弟が7歳の頃、ソリが欲しくて母親にねだった所、「自分たちで作ってみなさい」と言われ、設計図の書き方を母親が教えてくれたとのこと。

それを見て、大工道具を使って二人だけで作り上げたソリが、彼らのものづくりの原点のようでした。

その後、自転車屋になった兄弟が当事話題になっていた、飛行機作りにのめり込んでいきました。

その当時の飛行機作りは、大学の研究者が取り組んだり、スポンサーがかなりお金をつぎ込んだりしても、一向に成功していなかった分野らしく、ただのそのへんの自転車屋が成功するとは、周りの人たちは夢にも思っていなかった、とのことです。

この話ですごいな、とぼくが思った所。

それは、お母さんです。

近所でも評判の機械に強いお母さんだったようですが、それだけでなく、息子たちの好奇心を掻き立てるような、絶妙な「振り」。

設計図を書くことの意味を伝えた、とのことで、子ども達には、「これを書けば、僕たちにも作れる!」という効力感を与えたのだと思います。

この瞬間に、ライト兄弟の中のスイッチがオンになったのだと思います。

彼らのワクワクが着火し、その後死ぬまで作り続ける人生になる。

お母さんにはそんな意図はなかったと思うけど、多分自分で作るという面白さをお母さんは知っていて、それを子どもにも体験させてあげたかったのだと思う。

それで人生が決まってしまうのだからおもしろい。

ヘレンケラーに言葉を教えたサリバン先生もそうですが、偉人のそばには、すごい大人がいた、という法則がありそうです。

サリバン先生も、目が見えない、耳が聞こえない、言葉を話せないという三重苦の女の子のヘレンケラーを初めて見た時に、

「なんてかしこそうで、芯の強そうな子なのだろう。この子ならなんでもできる気がする!」

という第一印象を持ったそうです。

サリバン先生の、このあり得ない感性。

大抵の人が三重苦の子どもを目の前にしたら、
「なんてかわいそうな。。。。」

という印象しか抱かないだろうに、

その子の存在と可能性の無限さを、サリバン先生は感じたようです。

この感性が普通の人と決定的に違う。

子どもへの「信頼」がある。

信頼ほど子どもを勇気づけるものってないと思う。



子どものことを信頼する。

今日のB-tvで、パーソナリティーをしてくれた千葉さんは、「信用」と「信頼」の違いについて発言していて、

信用は、クレジット。条件付きで、担保があるからお金を貸してくれる。条件がなくては信用してもらえない。

信頼は、無条件。裏切られるというリスクすら、取るということ。

というようなことをおっしゃってました。


まさに。


条件付きの信じるが「信用」だとすると、

ぼくは「期待」とも言い換えられると思ってます。

「あなたのこと信じてるわ」

と言って、浮気をしないことを信じる、と言っていても、それは結果を期待しているということで、信頼にはなっていない。

相手が浮気するかしないかを操作することは、こちらにはできないわけで、それは相手が選択すること。

・・・・・とまあ、信頼と信用の違いの話は面白かったな。

ヘレンケラーから、また今日のB-tvまで戻ってきましたが、なんか娘の読み聞かせと、今自分がやろうとしているライフワークとが、完全にリンクしたりしていて、今、とんだわっしょい状態です。



〜〜子どもを信頼する大人を大量生産する〜〜


今、浮かんできました。

この仕組み作りをしたい。


今、日本中で「風穴」を開ける活動ができてきています。

子どもにコーチングを教える「子どもコーチクラブ」
ホームレス体験や劇をやる「生笑一座」(いきわらいちざ)
なんか、ぼく注目してます。

このように、日本全国で同時多発的に空気を変え始めることができれば、なにか起きそう。

子どもを信頼する大人を大量生産するために、、、、


まずぼくが、娘たちのことを信頼することだと、ブーメランのようにパンチがとんできました。



・・・・・おそまつ。









自殺予防の権威に会ってきました。


先週木曜日に、河西千秋先生という方の研修会に参加してきました。

河西先生は、日本うつ病学会自殺対策委員会委員長をしていて、国際自殺予防学会の日本代表の方です。

要するに、日本の自殺予防は、この人に聞け!という感じの人です。
日本の中で自殺に関する施策を検討していく上でも、かなり発言力がある方だと思ったので、若者の自殺を減らしたいと考えている、國井としては会わなくてはいけない人だと思い、鼻息荒く、前のめりになりながら、室蘭の会場に向かいました。

河西先生は今年から札幌医科大学に来たようで、それ以前は横浜市立大学にいたそうです。

先生がおこなっていた研究は非常におもしろく、実践的なもので、非常に効果が高いものでした。

ActionーJというプロジェクトで、
重篤な自殺未遂を起こして搬送された人に対して、ソーシャルワーカーがケースマネジメントの手法を用いて、その人のその後生活や医療面、心理的ケア面のマネジメントをおこなう、というものです。

ケースマネジメントとは、要するに生活の中での課題を解決していくために、病院や、カウンセリングなど、その人の生活を支えていく上での様々なサービスをコーディネートしていく手法です。コーディネートするだけでなく、その後も定期的に訪問して本人の状況を確認してましたくれて、親身になって相談に乗ってくれるので、精神的な支えになったりもします。

そのActionーJをおこなった群と、おこなわなかった群で、自殺未遂をまたおこなってしまった人の数を調べたところ、4分の1ほどになったそうです。

これは、かなりの高い効果を示していると思います。

かなりおもしろいと思ったのですが、なぜ、医療系の大学の先生が、ケースマネジメントに興味を持ったのか不思議でした。
ケースマネジメントとは、福祉の分野の手法です。
なので、先生になぜケースマネジメントが効果があると感じたのかを聞いてみました。

すると、先生が実際に自殺未遂者の支援を繰り返してきた中で、見えてきたのがケースマネジメントだった、ということです。

どういうことかというと、自殺未遂者を精神科の病院に繋げても、うつがあるという診断を受けて薬を処方されるだけで、それだけでは対して効果が上がらなかったというのです。

精神科は本人の精神的な情報を聞き取ってそれに対して薬を出すだけで、それだけでは本人を支えきれないというのです。

なるほど。

それなら、ケースマネジメントで定期的に見ていき、医者やカウンセラーとのマッチングも見ていけるし、生活の中での他の課題にも対応していける(就労面や金銭管理面など)ので、そちらの方が効果があるのもうなずけます。

研修後にも、名刺を交換しに行ったのですが、その時にも、「病院や、心理療法だけではダメです。ソーシャルワーカーが本当に必要です。」と言っていました。
ケースマネジメントの手法を武器にしているのが、ソーシャルワーカーです。

また、他にも質問してみました。

若者の自殺がなぜ減らないのか、それと、9月1日の自殺がなぜ多いのか、ということも聞いてみました。

すると、


「わからないというのが、正直なところです。」


とのこと。

先生の立場上のこともあり、エビデンス(科学的根拠)がない数字については言及できず、大変申し訳ないとのことでした。

これを聞いて、この先生は信頼できる、と感じました。

ですが、9月1日の自殺の根拠がないとなると、それは「国は動かない」ということです。

どんな調査をすれば根拠として出せるのかわかりませんが、それが出るまでは放置だし、出たとしても、いつになることやら・・・・です。

ということは、現場では、「おそらく、、、これだ!」という感じで、予測の元動き出すしかないということです。
そして、国のバックアップも期待はできない。

・・・やるしかないですね。


僕が変えるべきだと思っているのは、

『学校が絶対である』

という価値観です。

それを持っている大人の絶対数を減らす必要がある。

そして、子どもたちの中にも、学校が全てではなく、いろんな生き方がある、という感覚を育んでいきたい。

いろんな生き方があるという事例をガンガン教えていきたいですね。



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近くにある滝です。

水しぶきがすごいマイナスイオン