生きづらさをやさしさに変える くにい かつひろ

繊細すぎて苦しかったその生きづらさこそが、人を癒す力になったと感じてます。 くにいかつひろ

この自分で生きていこう。そう思えるようになる方法。

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自分でいい。

 

この自分で生きていこう。

 

そう思えた時ってあったかなぁ、と振り返ってみる。

 

 

 

、、、、無かったなぁ。。。

 

 

思えない。

 

自分は、記憶力が悪いから、メモも溜まり放題。

 

言われたことをやろうとして、次の依頼があると、前のことは完全に忘れてる。

 

嫌なことがあると、すぐに逃げたくなる。

 

今日やるべきことを明日に回す。

 

締め切りがギリギリになってようやく取り掛かり、周りを巻き込み迷惑をかけながら、ギリギリセーフで終わらせる。

 

嫁に内緒でドラクエ5のアプリを1800円で買って、コツコツ少しずつやって、レベル40になって、死闘の末、エンディングを迎える。

 

 

 

そんな自分に出会うたび、うんざり。

 

ため息が出る。

 

 

だから、自分のいいとこを探してみる。

 

目の前にいる人には真剣に向き合おうとする。

 

人当たり良く、人に不快な思いをさせないように振る舞える。

 

相手のプライドを傷つけないように、話を進められる。

 

つらい気持ちでいる人に、そのまま寄り添える。

 

ブログを書くと、その文章に喜んでくれる人がいる。

 

職場の機関誌の連載でも、感動してくれた人がいる。

 

子どもたちは、僕のことが大好き。

 

 

 

 

この「いいとこ探し」をやっていくと、

 

 

いいとこが見つかったり、

いいことができてる時は元気になれる。

 

 

 

でも、

 

これは、一時的で、

また嫌な自分が出てくると、身動きができなくなる。

 

とたんに落ち込む。

 

 

この繰り返しでした。

 

本当に。

 

だから、やっぱり、なんかやらないと、

自分に対して、

 

自分すごいね!

 

って、見せつけてあげないと、安心できない。

 

そんな感じでした。

 

だから、何もやらない、できない日は激しく落ち込む。

 

 

本当にどうしたらいいかわからなかった。

 

 

でも、ようやくヒントが見えました。

 

 

それは、

 

 

自己受容です。

 

自分の、いいとこ探し、ではない。

 

自分の

 

ダメなとこ受け容れ

 

これです。

 

 

そして、その方法が少し見えてきました。

 

 

その方法というのは、

 

「感情を受け容れる」

 

ということ。

 

 

 

もうちょっと言い方を変えると、

 

「今感じてることをそのまんま見てあげて、受け容れること」

 

です。

 

だから、

嫁に隠れてビールを一本、二本、三本と開けて行って、パスタを茹で始め、卵を割り、と本格的に夜食を作り始めた自分を見てがっかりしている時に、

 

「そうだよな。飲みたかったんだよな。これからの仕事に対して、先行きすごい不安だし、自分の今の能力と向き合うのがこわいんだよな。それに対して嫁にいろいろ言われるのも、やっぱりつらいんだよな。自分のこと大事にされてない感じ、したよな。だから、飲んじゃったよな。」

 

と、自分に言ってあげるんです。

 

行為と感情は分けます。

 

飲むことという行為は受け容れなくても良くて、

 

飲みたくなってる気持ちを受け容れてあげる。

 

これが自己受容です。

 

これは、自分にだけでなく、他者に対しても大変効果的です。

 

例えば、嫁。

 

例えば、子ども。

 

 

例えば、会社の同僚、上司。

 

親。

 

みんなに適用できます。

 

次回は、長女に対してやってみた、

 

他者受容

 

の記事を書きたいと思います。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

ブログを書けなかった最大の理由を暴露ります。

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ブログをしばらく書けていなかったのですが、ようやく正直にその理由を書くことができる気持ちになったので、それを今日は書きます。

 

なぜブログを書けなかったかというと、、、、

 

書こうとすると、

 

自分の優越コンプレック向き合いたくなかったからです。

 

優越コンプレックス、というのはアドラー心理学の用語です。

 

優越コンプレックスとは、劣等コンプレックスを持った人が、困難から逃れる方法。

(個人心理学講義p45、アルフレッド・アドラー)

 

要するに、大きな自信のなさを覆い被して隠すために、優越感を使う、ということです。

 

例えば不良の少年などは、教師に悪態をつきます。

彼らは、勉強などができなかったり、他の生徒などより劣っている部分を知っています。

ですが、悪ぶる態度で力を誇示することで、みんなより強いのだ、とアピールしています。

 

そうです、彼らは臆病なのです。

 

 

、、、、

 

 

そうです、僕も臆病だったのです。

 

それゆえにブログが書けなかった。

 

書こうと思うかネタはいくつもありました。

 

5月頭には、

北星余市高等学校の存続のために頑張っていた活動をNHK札幌が取材してくれて、特番に数分出ました。

 

5月末には、

日本グループホーム学会でより「障害のある人のグループホーム設置・運営マニュアル」という本が発行されまして、僕は4章を執筆しました。

 

これ、、、、全部、、、、、

 

 

「僕を見て!がんばってる!褒めて!すごいでしょ!」

 

みたいな痛々しい自慢なんですね。

 

しかも、それを気づかれないように書こうとしたりして、余計なんか気持ち悪い感じです。

 

そんな自分の部分をはよく理解していて、

 

「おっとーのブログなんか嫌な感じ」

 

全否定してきてました(笑)

 

はは(笑)

 

その理由がしばらくわからなかったのですが、

僕の劣等コンプレックでした。

 

僕のなんか自慢しようとする感じ。

 

これなんだよね。

 

自慢してないと、

人より優れてる感をアピールしてないと、

自分のことを人に見せられなかったんです。

 

それにようやく気付けました。

 

というか、そんな自分と

 

ようやく向き合えました。

 

そうなんだ。

 

自慢して、「すごいね」とか言われたかったんだ。

 

そんなダサダサな自分こそ、、、、

 

自分なんだ。。。

 

これこそ自分なんだ。

 

そう心から思えるようになって、

ようやくブログを書けるようになりました。

 

では、なぜブログを書けるようになったか。

 

それは、

 

自分の感じている感情をひとつひとつ大切にしてあげた。

 

だからです。

 

これによって、ようやく

 

自己受容の本質

 

を垣間見ることができました。

 

今、自己受容に関する書籍を大量に買い込んで、猛勉強中です。

 

僕だけでなく、みんなに自己受容の本質を実感してもらいたい。

 

だから、みんなもできるようにするために、研究してます。

 

第一回として、

 

9月20日火曜日

10:00〜11:30に、

 

苫小牧にて、

「やさしさと繋がるお話し会」

 

開催します。

 

良ければ、ご参加ください。

 

僕がやった自己受容についての記事は近々アップします。

 

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。

 

子どもはお手伝いが好きなわけではない。『大人を喜ばせる』ことが好きなのである。

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我が家の8歳と5歳の娘は、お手伝いが大好きです。

 

料理、洗濯、片付け。

 

なんでも大好きです。

 

その姿を見ていたので、

 

「子どもは本来的にはお手伝いが好きなのではないか」

 

と、感じていました。

 

でも、そう思いながら言葉にしてみると、やっぱり自分の中に違和感が出てくる。

 

お手伝い嫌いな子もいるよな、、、、と。

 

じゃあ、お手伝いの好きな子と、嫌いな子の違いはなんなのか、と考えたところ、おそらく、

 

「お手伝い」という行動が、

 

1、大人を喜ばせるもの

 

という経験をしているのか、

 

2、やらされるもの

 

と感じているのか、

 

この違いなのではないか、と思いました。

 

誰かのことを喜ばせることができる、という体験は、大人にとってもすごくすごく大切だと思ってます。

 

子どもにとっても同様だと思います。

 

だから、人間にとって、「誰かを喜ばせる」という体験は、非常に大事だろう、と思っています。

 

僕も忙しい時に、どうしても投げやりに子どもに手伝いを頼む時は、やっぱり、2の「やらされてる感」が出てしまって、なかなかやってくれません。

 

だから、少しでも手伝ってくれた時はできるだけ、僕の「喜び」を伝えようと思っています。

 

「褒める」では無いんです。

 

「褒める」だと、

「次に手伝いをさせるための布石だな、、、」と、大人の意図を感じてしまうし、

上から評価されてる感もあるし、

「親に都合よく動かされた」というような、操作された感を感じる子もいるかもしれません。

 

だから、親としては、手伝ってもらって「嬉しい」という喜びや、「ありがたい」という感謝を感じれるような自分で在りたい、と思っています。

 

親側がちゃんと、嬉しい、という気持ちを感じていないのに、義務感から子どもに感謝しなくてはいけない、と思って「ありがとうね」と伝えても、うまく伝わらない可能性が高いし、そのやり方は長く続きません。

 

だから、育児って、子どもに働きかける方法、ではなく、

 

『自分に働きかける』

 

ということがいかに大事なのか、ということを、最近実感してます。

 

子どもと一緒にいて、喜びを感じれる自分を作っておくこと。

 

これが、育児の究極の技ではないか、、、、、

 

と思っています。

 

少し話しが逸れました。

 

今回のまとめとしては、

 

 

子どもはお手伝いが好きなのではなくて、

大人を喜ばせることが好き!ということ。

 

なので、大人を喜ばせることを、どんどんやるようになります、ということです。

 

だから、子どものお手伝いを喜べる自分を作り、、、、、、たいけど、みんな忙しいですよね。。。。

 

だから、子どもにも当たるんだ。。。

 

それは当たり前だ。

 

 

でも、そう思うんです。

 

喜べる自分をつくりたいです。

 

 

今日はこの辺りで。

フウフカイギ議事録 vol.2 〜〜「自分時間」と「他人時間」〜〜

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「自分時間」


「他人時間」

どちらの時間で、今、生きてますか?


これは、仕事をしている時でも、
家族と過ごしている時でも、
家で一人でいる時でも、

どんな時でも、

「自分時間」 と 「他人時間」

どちらかの時間を生きていると捉えられる、ということです。

どちらの時間ででも生きることができる、ということに今日、嫁と話していて気づきました。

僕は他人の目を気にして生きている時間が非常に長いので、

昨日なんかは、「ほぼ丸一日」が「他人時間」でした。

朝は、嫁が怒るだろうから、と勝手に決め付けて、早めに起きて、洗濯をする。(嫁は別に怒らないのに)

仕事をしてても、同僚や、上司が僕のことをどう見てるかな、ということを意識して、仕事を選んで行う。

家では、みんな寝静まっている中、ビールを飲みながらも、完全に一人なのにもかかわらず、メールやらを返さないとな〜、こんなダラダラ動画を見て過ごして何やってんだ、、、、、とか思いながら時間を過ごしている。

どれも、「他人時間」ですね。

「他人時間」で過ごしていると、すごく不自由です。

疲れます。

人のせいにします。

イライラします。

落ち込みます。

何もする気がおきなくなります。


でも、今日の後半は「自分時間」で過ごせました。


誰かに決められるのではなく、

誰かの目を、評価を気にするのでなく、

今日、嫁と話して気づけたことを、このブログに書きとめたかった。

今、こうやってブログを書いている時間は、まさに「自分時間」です。



ちなみに、「自分時間」と「他人時間」は僕が考えた言葉です!

なかなか、使い勝手良し!


そして、今日から、ブログの文字数、短めにしてみます。

長い時は6,000字くらいの時もあったので、

今後はこのくらいで、800字ほどにしてみようと思います。

ですが、やると宣言しちゃうと僕の場合、途端にやる気を無くす(義務感が出てくる)傾向にあるので、そんな風に書こうと、今は思ってます。と書いておきます。

今日も、読んでくださり、ありがとうございます。

「大人と子どもを繋ぐもの」それを作りたいです。

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松下電器(現パナソニック)の創始者の松下幸之助さんは経営の神様と言われていて、非常に多くの名言を残しているそうです。

僕は大学の時に福祉学科で、なにか貧困の問題なんかも聞いたりしていて、お金というものはとても汚いものだと考えていた節があり、会社の社長や経営者というのは、なにか良くない輩だ、という感覚を持っていました。

ですが、今はお金に対する感覚もだいぶ変わってきまして、松下幸之助の言葉なんかを聞くと、かなり胸に迫るものを感じます。

その中で一つ感動したものを今回は書こうと思います。

なにかの講演会の録音です。

以下、松下幸之助の言葉。


〜〜〜〜〜
『仕事に期するもの』

仕事をすることの喜びとか、目的とか、意味というのを持たなくてはいけない、と僕は思うのであります。

これが必要ない、目的も使命感もない、それはあり得ない。
なにか期するものが必ずあるはずであると、思うのであります。

そういうものを持っていない人は話にならない。
けしからん!と。

なぜその仕事をしているのかと。

そのけしからんは、君自身に対してもけしからんし、
社会のとってもけしからんのだと、思うのであります。

君は社会にとって尊いものなんだ。その社会にとって尊いものとして、もっと君を活かしてもらわにゃ困るのだ。
そういうことが言えると僕は思うんです。

お互いにそういうことを言い合えると思うんですね。 

〜〜〜〜〜〜

以上です。

途中の、「仕事の意味を見いだせていないのはけしからん」

という言葉を聞いて、

うっ、、、きついこと言うな、、、と一瞬かんじましたが、
その後がすごかった。

君は社会にとって尊いのだから、仕事の中で自分を活かしてほしいと。

そうでないと社会にとって損失だと。

そう言ってくれてるんですね。

松下幸之助は学校に行ったことがなく、自分には学がないと思っていたそうです。

だから、どんな若者だろうと、自分より学があるだろう、この若者からきっと学ばせてもらえることがある。
そういう気持ちで新入社員にも接していたそうです。

これはすごいことだと思うんですね。

この謙虚さ。

松下幸之助は、幼少時代貧乏で、丁稚奉公に出ています。そして、若くして両親を亡くし、兄弟もたくさん亡くしています。幸之助さん本人も病弱だったそうです。

そこから這い上がってきた力は、「なにくそ!」という反骨精神というよりは、「感謝する」力のように感じます。

だから、新入社員に対しても、謙虚に真摯に学ぶ姿勢を持って接している。

新入社員からしてみると、そんな態度で接してもらえたら、どれだけ勇気が沸き立つことだろう。

こんなでっかい人間に出会ってしまったら、
「社長!付いて行きます!」
そんな気分になって、力を発揮できたんだろうなと思います。

僕は今の日本が元気になっていく上で必要なこととして、

「大人と子どもをつなげること」

が、とても重要だと考えてます。

それには、大人が真に子どもたち、若者たちを信頼できるか、ということが重要だと思うんです。

それを松下幸之助さんはやっていたのだろうな、と思いました。

「社会にとって君は尊い」

この言葉を本心から発することができる人が、世の中にどれだけいるか。

こういう名言って、今やネットで検索すればすぐにたくさん出てくるけれども、その言葉が生まれるまでには、その名言を発した人の人生分の思いと重みがあるわけで、ちらっと僕が見ただけで、その言葉を自分が扱うことは相当難しいと感じます。

でも、その深さに思いをはせることはできますね。

だから、

「社会にとって君は尊い」

ということを心の底から言っていた人がいた、という事実が僕に勇気をくれるのだなと感じました。

僕も僕の言葉で、子どもたちに勇気を沸き立たせたい、とそう感じさせてもらう言葉でした。

不登校の子どもたちにも声を大にして言いたい。

「社会にとって君は尊い。
だから、社会のために自分を活かしてほしい。」

不登校の君の先。

君が人生のその先で関わる人たちがいる。

君が仕事をすることで、その人達を幸せにするかもしれない。

そのダイナミクスを生み出したくて、僕は不登校の子どもたちとこれからも関わっていこうと思います。


シリコンバレーに負けない子ども会のおっちゃんになるために考えた方策

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昨日のブログの続きです。

AmazonyoutubeGoogle先生にも、DSにもプレイステーションにも勝てる子ども会の会長という、近所のおっちゃん。

今年度の目標です!

僕が勝機だと思っていることに、
「信頼する」
「貢献してもらう」
と、
「大人が人生を謳歌してる姿を見せる」
この2つがあります。

1、信頼するは、

とにかく今の子どもたちは、自分のことを信頼してもらっている、という感覚を感じにくいということです。
だから、
「君はどんなことが好きなのか。そして、どんなふうに成長するのか」
それを面白がり、めちゃめちゃ楽しみにする。それを伝える。

そして、

2、貢献してもらうでは、

僕が若者の文化を教えてもらう。彼らの流行りを教えてもらう。
そして、子どもらの心をつかむヒントを学びにいく。
ようするに、子どもらに僕の「今の子ども文化の先生」になってもらう。
すると、僕は子どもと仲良くなるツールを手にできるし、子どもとの関係性もよくなるという一石二鳥のアイディアになる。

3、大人が人生を謳歌している姿を見せる、は、

ようするに、今の大人が日々の仕事や生活で苦しんでいて、その姿を見ている子どもたちは、大人になることを楽しみに感じられない、ということです。
仕事や家庭生活の中だけでなく、地域の活動についても言えると思います。大人がコミュニティーのつながりの必要性を実感して、楽しく関わっている姿を見せてないと、そもそも地域活動に子どもがでたがらない。

でも、僕がまだ全然出ることができてないという、ひどい状況ですが、僕がやれることをやれるだけやって、結果干された時には、アジの干物にでもなります。

嫁が昔に言ってくれた言葉があります。

彼女がうじうじしている僕を見て、ずいぶん呆れて、散々イライラして僕に対して怒りを向けてくる中で、僕も反撃を繰り返しながら、不毛な戦いを繰り返していた時です。

嫁は逆転満塁ホームランを打ちました。

その言葉は、

「そんなうじうじやっている今この時に、不登校で苦しんで自殺を考えている子どもがいるんでしょ!自殺しちゃう子もいるんでしょ!あんたがやらないことで、救える子が救えないかもしれないんじゃないの!」

そんなようなことを言われました。

頭をハンマーで打たれたような感覚でしたね。

言葉が出てこなかった。


今でも、いろいろうじうじな自分が出てきますが、この言葉を思い出すと、勇気が湧いてくる。

本当に、すごい嫁なんです。

ということで、

ってなにがということなのかはよくわかりませんが、
これから、頑張っていこうと、思います。

子ども会!

子ども会の会長は貧乏くじなのか、ドリームジャンボ宝くじなのか。

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先ほど、地域の子ども会の総会があり参加してきました。

仕事帰りの道すがら、車内では中村文昭さんという方の講演会のCDを聴いてました。

ものすごく熱い内容で、とても感動。

中村さんの師匠さんがすごく熱い人だったらしく、その方の教えに、

「頼まれごとは、試されごと!」

というのがあったそうです。

誰かが自分に対して何か頼みごとをしてくれたときに、「いや、、、」とか「でも、、、、」とか言うな!、と。

できない、やれない、理由を探すな、と。

それは、試されているのだと。

喜んで引き受けて、期待を超えることやってみろ、と。

そうすれば、お前の人間力が上がる。人が助けてくれるようになる。

というようなことを言ってました。

それを聞き、

「そうだ!その通りだ!」

と胸が熱くなってました。

そして、そんな熱い心を胸に、子ども会の総会にたどり着きました。

事業報告、会計報告、と議事が進み、
みなさん最も嫌な時間、役員改選の時間になりました。

会計、副会長、と決まっていき、
会長は誰が、、、みたいな話になった時に、

「國井さんは、、、」

と振られました。

「いや〜〜〜〜〜〜、、、、」

とのけぞりながら、中村さんの言葉が脳裏をよぎる。


「頼まれごとは、試されごと」

・・・・・


心のなかでは、
『まじか〜〜〜、中村さん。まだ2年しかここにいないし、行事もまだ参加したことなくて、、いいのか?』
となりましたが、

「・・・わかりました」

と言いましたよ、中村さん。



・・・・これは、でもチャンスです。

今、日本中の自治会、子ども会が、存続の危機です。

僕が前に住んでいた神奈川の藤野というところでも、子どもがいないし、いても行事には参加せずで、成り立たなくなってました。

なら、やればいい。
僕がやればいい。

日本中の子どもたちを元気にするぞ!

と、意気込んでいましたが、
自分の地域の子どもたちを知らずして、何を言っているのかと。。。

という声も聞こえてきまして、これはチャンスだということにしました。

子ども合わせて13名とのこと。

みんなどんなふうに生きているのだろう。

どんな夢を持っているのか。

将来を暗く感じているのか。


僕が最近感じていることは、

「日本人の中でどれだけの人が主体的に生きることができているのだろう」

ということです。

自分で自分のことを決めて生きている、まさに僕がこれを選んでいる、と言い切れる人が日本の中にどれだけいるか。

僕もそうだし、大人もそうだし、子どももそう。

自分で道を切り拓いている人がどれだけいるか。

みんなと同じ道でも、自ら選んで、勧んでその道を歩んでいるのか。

はなはだ疑問。

「あの人に言われたから」
「親がやれって言ったから」
「みんなやってるから」

み〜〜〜んな、これではないか。

子ども会の活動って、子どもが幸せに生きていくためにやる地域の活動です。

でも、それに積極的に、主体的に関わる子どもっているのだろうか。

前にいたところでは、子ども会の最大イベント子ども神輿に、子どもが参加しなくなってきたので賞金(数千円)を出すようにして、こどもに出てもらう、ということになってましたが、それでも来ない子も多い。

これで家でゲームをやってる、とか聞くと、「最近の若いもんは!」と言いたくなるでしょうが、僕だって、行かないだろうな。

ようするに、地域の子どもの集まりに参加することに今の社会では意味を見出せないんです。

自分が今生きているこの地域と、そこにいる人との有機的な関わりの実感がないし、実感ないというかそもそも関わりなんてなくても生きていけるし、関わりは面倒を運んでくるだけで、必要性がない。

ここをそのまま
「昔ながらのものを残さなくては・・・」
では、難しい。

昔は、近隣の関係性が生きていく上で「必要」だったわけで、そのなかで貢献することが生きていく上で必須でしたし、1年の中で脳内興奮物質のドーパミンが最も分泌されるイベントが「祭り」だったわけです。

だから、Amazonで、安くどこでもなんでも手に入り、youtubeでは世界のトップアーティストのライブをほぼ無料で見放題、Google先生に聞けば大概の知識が手に入るような時代には、近隣の関係性が薄れていくなんて必然。

ようするに、近隣の人間たち、僕らが、子どもらに「必要とされてない」のです。

・・・・残念!

全くもって残念!(笑)

でも事実!

これ、事実です。

では、僕らは近隣の子どもたちから必要とされるにはどうすればいいのか。。。。

Amazonにも、youtubeにも、Google先生にも勝てる、近所のおっちゃん。

それに僕はなるぞ。

子ども会の会長として、シリコンバレーの企業たちに勝ってやる。

では、なにをやるか、、、

長くなったので、それは明日の20時にアップします。

それでは、また明日に書きます。