生きづらさをやさしさに変える くにい かつひろ

繊細すぎて苦しかったその生きづらさこそが、人を癒す力になったと感じてます。 くにいかつひろ

連載の第2弾です。

國井一宏の「僕にとっての福祉」連載2
 逆襲のフクシ ―――その2『福祉とは』~社会福祉を「窮屈」と感じる感性を~
連載のテーマである、「僕にとっての福祉」について、今回は書いてみます。前号の「20年後を見据える」にも通じますので、よろしくお願いします。
広辞苑で「福祉」を調べると、「幸福。公的扶助やサービスによる生活の安定、充足。」とあります。ネット辞書のWikipediaですと、「しあわせ」とか「ゆたかさ」を意味する、とあり、福祉は「幸福」と言い換えてよいのだと思います。
そして「福祉」は、なぜか「社会」という言葉がくっつき、「社会福祉」になっていると思います。僕は、この「社会」がキーワードだと思っています。要するに、「福祉」=「幸福」を与えてくれているのは、実は「社会」なんです。
どういうことか説明します。僕らはたつかーむで「障害福祉サービス」という制度を活用して支援をしています。この費用は「国」、要するに「社会」が出しています。社会がお金を出して、障害を持っている人の生活や仕事を支援しているのです。僕ら現場で直接支援をしている人は言ってしまえば、「社会が良いと考えた支援を、社会がお金を出して、代わりに遂行している駒」とも言えてしまいます。その側面は事実です。例えば、グループホームという障害福祉サービスがあります。そのサービスを使うには、社会が認めた建物の基準、人員の基準、消防設備の基準、これらを満たすことが必要です。満たせば、社会がお金を出してくれる。満たせなければ、社会はお金を出さない。そういう仕組みです。逆に、基準を満たせば、どんな人や組織でも、障害福祉サービスをおこなえます。この点で、代わりの効く駒です。この福祉のサービスを決めるのは、社会であり、僕ら現場ではないのです。
そしてそんな一律のサービスゆえに、誰も必要としていないのに、建物の大きさによっては消防法の基準によってスプリンクラーを設置しなくてはいけない、などの無駄も生まれます。それだけではなく、支援が必要なのに、障害の認定を受けられないために、サービスを利用できない、などの矛盾も生まれます。現場では何が起きるかというと、本人が必要としているのに、僕らには何もできない、というもどかしさを感じることになる、ということです。
僕らがおこなっている支援の90%以上は、「社会福祉」なんだと自覚しなくてはいけない。社会が認める支援しかできない、その限界の枠の中でおこなっているのだと、意識しなくてはいけない。
そして、それを「窮屈」に感じなくてはいけない。社会が認めない支援をおこなえないことを当たり前と思ってはいけない。憤りを感じなくてはいけない。その時に「日本の福祉はダメだ」と愚痴なんか言ってはいけない。愚痴を言って、止まっていてはいけない。そういう必要な支援を「社会に認めさせる」ために動いていかなくてはいけない。
平成27年2月13日にサポートセンターたつかーむより、「公営住宅を使ってグループホームのサテライト型住居(アパート1室での一人暮らしをグループホームとみなすもの)利用を認めていただきたい」という主旨の要望書を壮瞥町に提出しました。30年近く前に社会からのお金をほとんど頼らずに、フロンティア精神で作り上げてきたたつかーむは、今も変わらず「社会福祉」の枠を壊しながら進んでいきます。
「枠を壊す」「代わりの効く駒」・・・逆襲のフクシ的な表現で満足です(笑)
 でも、壊しているだけでなく、そこに新たな福祉を作っているわけです。
前号に載せた「20年後」に向けて、平成27年、こんな第一歩をたつかーむは歩んでいます。


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草原、、、、です。

北海道だなー