最も責任ある行動は、「やりたいことをやることだ」
今回のブログの題名の、
最も責任ある行動は、「やりたいことをやることだ」
という言葉に僕がはじめて出会ったのは、ちょうど2年ほど前でした。
これは、「ソース」という本に書かれていました。僕が洞爺湖に移り住むことを決心し、大好きだった仕事も辞め、新たな人生をスタートするきっかけをくれた本です。
その本の中で最も衝撃的だった言葉がこれです。
はじめに見たときは、よくわからなかったと同時に、自分の中に、受け入れがたい何かを感じて、アレルギー反応のようなものがでました。
やりたいことをやること。
これは、自分の好きなことをやる、ということなので、一見、他者を無視して、とにかく自分が好きなことをやる、という風に見えます。
そうなると、他者のことをないがしろにするように感じてしまう。
それに、そもそも、日本では、「我慢が美徳」というような文化があり、「耐え忍ぶことで褒められる」というような感覚があります。
そういう文化的背景もあって、好きなことをやる、ということ自体に罪悪感を感じやすいと思います。
そして、責任ある行動、とは、
やるべきことはやる、だとか
言ったことはやる、だとか
他者の期待に応える、
などのことを指すように感じます。
そうなると、「好きなこと」というものと、「責任ある行動」は相容れないように感じます。
ですが、僕は、自分がやりたいことをやることこそ責任ある行動だ、と今は強く感じています。
「責任ある行動」というのは、
自分が全ての責任を負える、ということだと思います。
誰かのせい、会社のせい、夫(妻)のせい、子どものせい。。。。。。
僕らは人生の中で少しでもうまくいかない時に、何かしらのせいにしがちだと思います。
それは、自分が苦しまなくて済むから。
誰かのせい、大人のせい、上司のせい、国のせい、社会のせい。
そうなった時に、責任が自分ではない、誰かに写っています。すると、自分で責任を負わずにすむ。
しかし、この責任のなすりつけができてしまうと、今取り組んでいる課題に、本気で取り組めなくなります。
そして、うまくいかない時に、その責任を誰かのせいにできてしまうと、改善点を考える時に、突き詰めて考えにくい気がします。
誰かのせいにできるということは、そのことに、全身全霊で向き合うことを避けることができてしまうことになります。
これは、幸せが遠のくことだと、僕は考えています。
では、やりたいことをやる、というのはどういうことでしょう。
やりたいことをやる、というのは、誰になんと言われても、誰の期待があろうとも、「自分」がその行動をおこなうことを決めることになります。
僕は、それが非常に大切だと思っています。
僕らの世代に多いのかもしれないですが、他者の期待に応えて生きるということを癖のようにして生きてきた人にとって、「やりたいことをやる」というのは、本当に難しいことです。
でも、やりたいことをできていない状況で、他者のことを大事にできない。
これは声を大にして言いたい。
マザーテレサも、我慢をして、死にゆく人々の手を握っていたかというと、そうではない、と僕は思ってます。
彼女にとって、その場にいることで、自分の命を使うことができているような、なんともいえない感覚があったのではないでしょうか。
福祉の仕事も同じことが言えると思います。
福祉の仕事をしていて、本当によい仕事をしている人は、その場にいて、幸せを感じる瞬間があるはずです。
がまんしてその場にいるだけでは到達できない。
僕は、不登校、ひきこもり、という苦しい状況の中にいる人たちに、この言葉を知ってもらいたい。
これから生きていく道は、
「がまんして、なんとか生きていく」
のではなく、
「やりたいことをして、その責任を自ら引き受けて生きていく。」
この道なのだと、知ってほしい。
誰のせいでもない、僕の、私の人生にできます。
うちに飾ってる、お気に入りの葉っぱです。
宿り木という植物です。