不登校とは・・・・・チャンスである
「不登校とは○○○○である。」
こんな問題が出たとしたら、みなさんはどんな答えを書き込むでしょうか?
いろんな答えがあると思いますが、今の僕にとっては、「チャンス」という言葉が一番しっくりきます。
そして、このブログでは繰り返し言っていますが、「不登校してよかった」と僕は心の底から思っています。
それでは、不登校がチャンスである、という理由の一つ目ですが、
「人生に主体的に関われる」
です。
今、この文を見てくれている方。
あなたの今の生活。仕事。一緒にいる人。学校。部活。サークル。趣味の会。
それらの活動をすることについて、
「自分で選択している」と心の底から言える人ってどれだけいるでしょうか?
「誰かに期待されてるから」
「一般的にその方がいいから」
「友達に誘われたから」
「それが普通だから」
「そういえばなんとなく」
そんな感じで、主体的に選択できている、と言い切れることって意外と少ないのではないでしょうか。
僕は、主体的に選択していることって非常に大切だと思ってます。
それが、幸せの第一歩だと思ってます。
誰のせいにもできない、ということは、シビアであり、それこそが幸せだと思います。
そこにくると、不登校はまさに自分で選択してます。
他人から、奇異の目で見られても、一般的な生き方から外れてしまったとしても、そういうリスクを負ってでも、不登校を選択しているわけです。
不登校という状況は、主体性を獲得するための第一歩としては、非常に良いのではないかと感じます。
誰のせいにするわけでもなく、僕が選んで不登校をする。
自分の人生の主人公になる第一歩だと感じます。
不登校をしない状態だと、その一歩を踏み出すまで、しばらく時間がかかる場合があります。
そういう意味でも、
「不登校」=「主体性の獲得」
という変換をする、チャンスが訪れている、と捉えられると思います。
職場近くにいる馬ですが、この度、あかちゃんが産まれたようです。