生きづらさをやさしさに変える くにい かつひろ

繊細すぎて苦しかったその生きづらさこそが、人を癒す力になったと感じてます。 くにいかつひろ

人の期待に応えて生きていると、嫁から嫌われる

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僕は、人の目を気にして生きてきました。

35歳になって、人の目を大分気にしなくなってきたのですが、それでも、人の期待に応えようとしてしまうことが結構あります。

人から好かれようとしてしまう、ということです。

それに対して、今日読んでいた本のなかに、非常に辛辣な言葉が書かれていたので、今日はそれを書きます。

アドラー心理学 実践入門〜「生」「老」「病」「死」との向き合い方〜』という本のなかに出てきたのですが、

「他人の期待に応えようと生きているのには目的がある」

というようなことが書いてありました。(文を探したけどなんだか見当たらない)

どんな目的かというと、

「責任を自分で負わないようにしている」

と言うのです。

これはすごい。

痛い。

・・・・そうなんです。

他者の期待に応えて生きていると、
自分で責任を負わずに済むのです。

期待をかけた人のせいにできてしまう。

それって実はすごく楽。

最近ではこんなことがありました。

僕が仕事から帰ってくると、真っ先に子どもを寝かせるために歯磨きやら着替えやらを担当します。

その間、僕は自分がやりたい、やるべきことができないわけです。
だから精神的に余裕がない時にはどうしてもイライラします。

「仕事から帰ってきて、自分のやりたいこともできないのか・・・ギターも弾きたいし、家計簿も記入したいし、ブログも書きたいのに。。。」

みたいな気持ちになって、妻を責める。

じゃあ、自由な時間がもらえたりした時に、想定していた自分がやりたいことを嬉々としてやるかというと、意外とやらない。

そして、やらないでいると、
「あ〜こんなに時間があったのに、なんで無駄に過ごすんだ」
と自分を責める。

上記を見ていると、妻を責めるか、自分を責める、なんですね。

そして、妻を責めている方が、100倍くらい楽。

自分を責めてる時のが、俄然苦しい。

そういうことなんだとおもいます。


「妻のせいにしたいから、期待に応えるように行動してしまう。」

妻のせいにすることが目的になっているのだとおもいます。

じゃあ、妻の期待に応えないようにするためにどうすればいいのか、ということを考えて、子どもの世話は妻にやはり任せる、という風になるのは違うと思います。

要するに、どんな行動も、妻が期待していようが、世間が期待していようが、社会が要請してこようが、要は、

『自分で選択した行動なのか』

ということが問われているのだとおもいます。

妻は妻の都合で、勝手に期待しているのであって、それに応じて僕が行動するのは、
「反応的」な行動であって、「主体的」行動ではない。

あちらさんは、あちらさんで勝手に期待をしてるのです。

ほっておきましょう。

僕が子どもの歯を磨くことを選ぶのです。

ちょっと面倒だけど、子どもの歯を磨く。

そして、絶対に妻のせいにはしない。

だってなんか妻のせいにするのは、カッコ悪い。


こんなちっちゃなことですが、日々の家族との生活では、こういうことひとつひとつのメンテナンスが実は非常に重要だなと。

そう感じました。


そして、子どもたちや、不登校の子たちにも伝えたい。

親や、先生の期待に応えようとする、というのは、
親や先生のせいにしようとしているかもしれない、のです。

勉強する、学校に行く、遊ぶ、ゲームをする。

誰のせいにするでもなく、その行動を自分で選んでしまおう。


おさらいです。

『他人の期待に応えようとする、というのは、
他人に責任を転嫁する、という目的からおこなっている』

ということですよ。

くにいくん。わかりましたか?