生きづらさをやさしさに変える くにい かつひろ

繊細すぎて苦しかったその生きづらさこそが、人を癒す力になったと感じてます。 くにいかつひろ

過去ブログ17 リトマス試験紙、3つ目

今日が最後のリトマス試験紙の話です。
それは、「存在(being)」と「行為(doing)」のチェックです。

子どものことを叱る時、例えば、友達のことを叩いてしまった時に、「叩いてはダメだよ!」という言葉かけは「行為(doing)」に対しておこなっています。そうではなく、「また叩いて。だからあんたはダメなんだ」という言葉かけは、「存在(being)」に対しておこなっている、と捉えてみます。
叱る、というのは、不適切な行為を教える、より良い方法を教えるということだと思いますが、この時に、行為自体を指して、伝えているのか、子ども本人の人格を指してしまっているのか、ということがあります。
当然、叱る時、というのは、行為を指すということが大事だ、というのは、少し冷静になって見てみれば、すぐにわかると思います。
でも、子どもと関わっていると、それがものすごく難しい。つい、イライラに任せて、子どものことを攻撃したくなってしまいます。
ひとつには、ぼくらは子どもに対して何か叱るときというのは、簡単に「人格攻撃」になりやすいということです。適切な「叱る」という方法のすぐ隣に「人格攻撃」「存在否定」が眠っている。
だから、僕は叱るというのがすごく苦手です。よほど注意しても、相手を傷つけてしまいそうで、仕事でも家庭でも、うまく伝えられないな、と感じる時が多いです。
ぼくにとって、ここは大きな課題ですが、
「叱る」=「行為(doing)」にする方が良い、ということです。

では、「褒める」というのはどうでしょう。
以前ブログで、褒めるではなく、「感謝」とか「喜ぶ」とか「共感」「感動」というものにした方が良い、ということを書きました。
この、感謝、喜ぶ、共感、感動がなぜ良いかというと、相手の「存在(being)」に向きやすい、という要素があるからだと思います。
僕が最も危険だと思っているのが、「行為(doing)」のことを褒めてしまう時です。
例えば、テストの成績が良いことばかりに焦点を当ててそれを褒め続けると、子どもとしてはテストの点数が良い時は、高評価を得られるわけです。すると、「テストの点数が良くないと、褒められない。成績が良くないと高評価を得られないのではないか」と無意識で認識する危険性がある。それが発展すると、「成績が悪くなると、親にがっかりされてしまう。成績がよくないと愛されないかもしれない」そう感じてしまうかもしれないです。
子どもの意欲を引き出すために、テストの点数が良いことをどんどん褒めたくなると思います。でも少し冷静になってほしいと僕は思います。本人が努力して、がんばってやって結果を残せたのであれば、褒める、ではなく、その結果を一緒に「喜ぶ」ということ。そして、「結果」を評価するのではなく、その「過程(プロセス)」に焦点を当ててあげること。これが大切だと思います。
「褒める」が「行為」に向くことは危険だということです。

以上見てきたことをまとめると、

「否定」=「行為(doing)」
「肯定」=「存在(being)」

にすると良い、ということです。
肯定はなんにでもやっていいわけではなく、「行為」を肯定するときは、よほど注意しなくてはいけない、ここに落とし穴がある、ということを覚えておきたいなと思います。

もうひとつ、行為に向きすぎてよくない状況は、行為が良い形で評価をもらいすぎたり、自分の行為に過信してしまうと、ナルシスト的になることです。それはそれで、アドラー心理学では「優越コンプレックス」という言葉で表現して、良くないことだと指摘しています。自慢をしてしまうこともここに入ります。
これは僕の中にあるな、と感じていて、そこと付き合わなきゃならないと感じています。ナルシストは自分に酔っているようで鼻につきますが、実は、自分の存在自体への自信のなさが根底にあると思います。それを隠すために、自分の行為、自分の業績、過去の栄光にすがっている、ということなのです。

今まで見てきたところでは、行為に向くことは否定も肯定もよくない場合が多い、ということを見てきましたが、行為に向くことがすごく良いもの、というのを最近発見しました。
それは、一般的常識からすると、非常に良くない行為、自分でも自分のことを否定してしまうようなやってはいけないこと。でも自分はしてしまったこと、消せない過去。例えば、不登校やひきこもりです。
こういった社会から受け入れられないことを、他者に伝えた時に、他者がその「行為(doing)を受容してくれたとします。それは、ものすごくパワフルな力だと感じました。この時ばかりは、行為に焦点を当てたい、と気付きました。
自分の弱さをさらけ出す。その勇気を他者が尊敬してくれたとすると、ものすごく自信になります。
ぜひ、不登校、ひきこもりの人は、その自らの状況をさらけ出して、他者に表現してしまってください。その先におもしろいことが待っていると思います。
ダメだった行為を受け容れてもらい、自分でも受け容れられるようになると、まさに「存在(being)」が満たされていくように感じます。

以上「対、他者」の行為と存在に対して見てきました。
では、「対、自分」を見てみるとどうでしょう。

僕は「自分」と絶えず、会話をしています。その時、自分にどんな言葉をかけているかというと、「今日もなんもできなかったな」とか、「また寝過ぎてる」だとか、「いつもいつもできてない」というような言葉かけが非常に多い、ということです。
とにかく、自分の「行為」に焦点が向き、なにもできていない自分を責める。そして気付くと、「だからお前はダメなんだ」という自己否定の言葉を口癖のように投げかけています。
もう気づかないくらい毎日毎日投げかけている。これを他人にやってたら、ものすごい陰湿ないじめです。でもそれを毎日何時間もおこなっている。これは僕だけではないのではないでしょうか。
自分の行為にしか目が向かない。これは、子どもの行為にばかり目がいきがちになることを示唆してます。
変えたいところです。
自分を条件で見てしまう。このくらいのことができていないと、認めてあげない、と自分に対して条件付けをしている。あるがままを受け入れる、と簡単に言いますが、「じゃあ具体的にどうすればいいのだ!」と言いたくなるくらい、自分に条件をつけてしまう。
条件付けをクリアできれば、自己受容しますよ、という感じ。ここを抜け出る必要があります。
それについては、これから最大のテーマだと感じているので、必ず解決策を見つけ出したいです。具体的方策を編み出したいと思ってます。

以上見てきましたが、ちょっとまとまらずですが、「行為(doing)」と「存在(being)」のリトマス試験紙について見てきました。

この最後のリトマス試験紙は、見てきたように、かなり複雑です。こうすれば良い、と簡単に示してくれるわけではないのですが、人のこと、起きている状況を分析するときに、行為と存在に分けて考えていく、という視点は、様々なヒントを与えてくれると感じています。なので、紹介してみました。
まだまだこの部分はこれからの学びによって発展していきそうなので、また新たに役立つようなことを発見した時にはご紹介したいと思います。