フウフカイギ議事録 Vol.1 〜ファッションとは自己肯定ではなく、自己受容である〜 「自分らしさ」と「不登校」に関する考察
障害福祉の仕事で、夜勤も週1、2回あるので、その日はできませんが、それ以外の日の90%以上、妻と会議をしています。
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などなど、古今東西、ありとあらゆるテーマで面白いことがないか、と話し合っていて、意見を交わします。
これが本当に面白い。
なので、ブログに書く内容も、実は妻がおもしろいことを言っているのに、さも僕が発見したかのような論調で書いていたりするのですが、
出典は國井嫁でした、ということがあったりします。
そういうのも、なにやら気が引けるので、このような「フウフカイギ議事録」というシリーズ物にして、おもしろい内容が話題で出た時には、フウフカイギ出典です、ということで、僕のブログで書いてみよう、という話になりました。
前置きが長い。
では、フウフカイギ議事録Vol.1、行きます。
先日、國井一家で、関東入りしていました。
父が入院していて、死ぬ前にお見舞いに、という縁起でもない趣旨でしたが、知り合いのヘアメイクアーティストの方に、ちょうど良いから(なにもちょうど良くない)一家全員のヘアカットをお願いしてみようと思い立ち、行ってみました。
その中での話が非常に面白かった。
そのヘアメイクアーティストの方が「自分らしさ」ということを何度か口にしていたので、妻から「◯◯さんにとっての自分らしさって何ですか?」
とキラーパスを出していました。
すると、その方は、僕の髪を手のひらで触りながら、
「僕は自然が好きなんだよね。例えば、この子(おそらく僕の髪の毛たちのことを指している)がいるとするでしょう。この子が行きたい方向が必ずある。だからその方向に行かせてあげる。それをやること。その子が自然な姿になる、ということ。それが自分らしさだと思う。」
これを聞いて、僕と妻は
「お〜〜〜!」と、唸りました。
これは、「自分らしさ」について、かなりすごい定義をしているように思いました。
答えは、「本人の中にすでにある」ということ。
自分が行きたい方向に気づけていないだけで、自然な方向に行ければ、それこそが自分らしくいられている、ということ。
これは衝撃でした。
そのヘアカットにもまさに体現されていることにも、驚きでした。
以前妻がカットしてもらっていた時に、「このつむじの流れから行って、この髪はこっちに行きたいんだよね。だからそうしてあげる」と言っていたのです。
それを僕の髪でもやってくれた。
僕のヘアセットが完成した時に
「自然〜〜〜」と妻は一言。
僕も見てみると、驚くほど自分にしっくりくる。
この後、駅の鏡や、ビルのガラスに映る自分を見て、びっくりしたのは、
「あ、これがくにいだ」
と感じたということです。
今まで、鏡を見ると、だいたい髪をクシャクシャとやって、ボリュームを出させて、自分を少しでも良く見せようとするところがありました。
それだけでなく、自分の顔の嫌いで隠したい、目立たせないようにしたい、エラの部分、顔が大きいことなどを気にならないようにしようと髪を整えたり、などしていました。
ですが、それを全くしたいと思わない。
「これこそ自分だ」
と思える髪型、というか顔、というか姿なのです。
という話を、夜、フウフカイギで話題に出しました。
妻はその日、そのヘアメイクアーティストの方に、メイクも教わっていました。
その中で、
「自分を着飾る、というよりも、自分を受け容れる、というプロセスのようだった」
と妻は回想していました。
これはおもしろい。
僕らの中でファッションに対する価値観がガラッと変わる瞬間でした。
ファッションとはもしかすると、
「自分を良く見せようとする」
ことなのではなく、
「自分らしくなるということ」
さらに言うと、ファッションとは
「自分になる」
ということなのかもしれない、と気付きました。
僕の好きな心理学用語的に言い換えてみると、
ファッションとは「自己肯定」ではなく、「自己受容」のプロセスなのかもしれない。ということです。
「自己肯定」は、自分のことを「良いもの」「正しいもの」という形で少し強引に自分に言い聞かすようなニュアンスが含まれると僕は感じています。
「自己受容」は自分の自然な姿、良いも悪いも含めた自分こそ自分なのだ、という感覚。
「ファッションとは自己肯定ではなく、自己受容である」
ということです。
しかし、髪が「自分らしく」なることで、その人自身も自分らしくなっていく、というのがすごい。
ヘアメイクで、自己受容が深まることもあるのだな、と驚かされました。
自分らしくいる、ということは、あるがままの自分でいられている証拠、とも言えますね。
「自分らしくいられる場所」というのは、無理をせず、自分のままで安心できる場所、ということ。
自分以外の何者かにならないと、いられない場所ではなく、そのままでいられる場所。
子どもたちには、ぜひそういう場所を見つけ出したり、作り出してもらいたい。
不登校で考えると、
「学校にいると、自分らしさがどんどん無くなっていってしまう。だから、
『自分になるために不登校になる』」
とも言えるかもしれません。
「子どもを社会に適応できる人間に成長させる使命」が学校にはあります。
だから、それが行きすぎた時に、「自分らしさを剥奪してでも社会に適応しようとする」子どもが出てきてしまい、その子達が不登校になる。
この構図は、、、、確かにある。
僕はここ10年近く、妻にしかヘアカットしてもらっていなかったので、久々にプロに切ってもらいました。
髪を切ってもらうだけで、これだけの気付きがあるのはすごい。
プロの仕事はすごい。
フウフカイギもすごい。。。。。ということにもしてしまおう。
でも、今回のブログのタイトルは長すぎました。
(注意書き)
僕は自己受容と、自己肯定を分けて考えていますが、様々なカウンセラーや精神科医、心理学者などが使っている自己肯定感について、大いに賛同する使い方も多いですし、最近は乙武さんが自己肯定感を中心テーマに据えた本を書いていたように、自己肯定という言葉を良くない、とは言いたくないです。
ただ、厳密に考えると、自己肯定は誤解を生むような使われ方をされやすいと感じていて、より自己受容の方がしっくりくる、ということです。