生きづらさをやさしさに変える くにい かつひろ

繊細すぎて苦しかったその生きづらさこそが、人を癒す力になったと感じてます。 くにいかつひろ

朝起きたら、テーブルに「死ね」と殴り書きされた書き置きがあった件

僕は嫁が大好きです。

 

ですが、そんな想いも虚しく、嫁からものすごく怒られることがあります。

 

罵られます。

 

そんな國井家劇場を、今日はひとつご披露します。

 

先日朝起きてリビングに行くと、テーブルにメモ書きがあり、

 

「死ね」

 

と殴り書きされてました。

 

 

え!?

 

僕、なんかしたっけ!?

 

またなんかやらかしてしまったか。。。

 

 

おそるおそる、嫁に真意を問うてみると、

 

「はっ!?あんたが起きて来るって言って、寝てたからでしょ!!」

 

 

あぁ。そうか。

 

昨日話したいことあるって言ってたもんな。

 

そうだった。子ども寝かしつけて寝てしまっていたんだ。

 

 

 

 

、、、、、、、、、うん?

 

 

 

って、おい。

 

我が家って

 

「うっかり寝てたら死ねって言われるシステムなんですか!?」

 

トンデモナイわ。

 

その後、息子を保育園の一時預かりに預けに行き、

嫁は自分のお店の整頓

僕は我が家の片付けなどをして、

 

一緒に洞爺湖湖畔で弁当を食べてランチしよう。

 

という話になりました。

 

 

おお、いいぞ!

なんか、ピクニックみたいじゃないか!

幸せな家庭の休日じゃん!!

 

と僕が浮かれていたら、

 

そのランチをする時間、について僕と嫁で想定していたことに食い違いがあり、また嫁から罵(ののし)られます。

 

「は!?それじゃ2人で話しできないじゃん!なに考えてんの!さっきそれ言ったのすら覚えてないの!」

 

と言われました。

 

どういうことかというと、僕は息子を迎えに行ってから3人でランチと思っていたのですが、嫁は

「2人で話しながらランチをしよう」

と思っていたようなのです。

しかも、それはさっき伝え済みとのこと。

 

嫁「私のしたいと思ってること、全然わかってくれない!」

「そもそもわたしの言ったこと覚えてないなんて、大事にしてないってことでしよ!」

 

と続けざまに口撃してきます。

 

僕も、

 

「いや、そんなことは聞いてなかったはず!」

「そもそも、相手に言わずにわかってもらおうとする方がおかしい!」

「そんな言われ方したら、嫌な気持ちになるだけじゃないか!」

 

と応戦。

 

売りコトバに買いコトバ。売りコトバに買いコトバ。売りコトバに買いコトバ。

買いタバコに歩きタバコ。。。。

 

 

おっと、待てよ。

 

そうだ。

行為

感情

に分けるんだった。

 

 

行為は

「死ね」という殴り書きの書き置き

「なんにもわかってくれない、記憶力もない最悪なダメ男!」という罵り

 

感情は

「2人で一緒に話したいと思っていたのに、話せなくて悲しい。」

「旦那が私と話したいと思ってくれてないように感じる」

 

でした。

 

それに気づいた瞬間に、こちらの怒り感情が、

 

サーーーーっと冷めて行きました。

 

そして、

 

僕「あれ。いや、その、なんだ。ようするに、おっかーはおっとーと話したかったんだよね?」

 

嫁「そう!」

 

僕「しかも2人きりで、ゆっくり話したかったんだよね。」

 

嫁「そう!」

 

僕「そして、2人でランチすると伝えたのに、それを記憶にとどめてないってことは、おっとーはおっかーのことを大事にしてない、って感じて悲しかったってことだよね。」

 

嫁「うん」

 

僕「大事にされてないって感じさせてしまったのはほんとごめん。」

「でさ。おっとーと話したいんでしょ。それってさ、実はすごい嬉しいことじゃん!だっておっとーと話したいんでしょ!おれも2人で話したいし!3人より2人のが絶対いい!」

 

嫁「、、、なんか昔付き合ってた彼を私はすごく大事に思ってたのに、私のことはあんまり考えてくれてなくて、なんか自分バカみたい、と思ったあの時のことを思い出した。」

 

と、少し涙。

 

その後は全く関係ない話しに行き、さっきの熾烈なバトルはなんだったのか、、、、という感じになりました。

 

國井 家劇場、、、閉幕。。。

 

 

 

、、、、、、ハイハイ。

 

 

 

トンダ、ノロ〜ケバナ〜シダネェ

 

 

キクニタエナイゼェ〜

 

 

カッテニヤッテクレ〜

 

 

テユウカオマエホントニシネェ〜

 

 

シンデクレェ〜

 

 

という声が聞こえてくるようだ。。。

 

そしてなにやら四方八方から空き缶やらバットが飛んできそうな空気ですが、僕は負けません。

 

このブログを書き上げるぞ。

 

 

というわけで、子どもだけでなく、

嫁に対しても、

 

行為

感情

を分けて、

 

感情を感じられるようにしていく。

 

ということが、功を奏した例でした。

 

表面的な行為が

罵詈雑言による、罵り

だったわけで、

 

(ウェブ上にあげますし、嫁に対する世間様の目もありますし、表現が大変柔らかいもののみ抜粋して掲載しております。ありのままでは、ピーーーとか入りそうなので)

 

感情を探すのは大変難しかったです。

 

特に嫁という間柄の人の場合、こちらの感情を、揺さぶる鋭い指摘をよく理解しているので、めちゃめちゃこちらの感情がぐらつきます。

 

ですが、練習すればやれる気がしますね。

 

先ほど、嫁に原稿チェックしてもらいましたが、事実と違う部分がありました。

 

嫁は、

「死ね」

と書いた時点で満足して、

健やかな眠りにつき、

朝は機嫌よかったとのこと。

 

、、、たしかに、、、言われてみればそんな気がする。。

 

あそこで

「死ね」

という殴り書きをしなかったら、確実にもっと恐ろしい戦慄が待ち受けていたことでしょう。

 

だから、

 

「死ね」

 

というメモは

 

絶対に書いた方が良かった!

のです。

 

ここは誤解しないでもらいたい。

 

「死ね」って書くなんて最悪な嫁だ!我慢の足りない女だ!と思うのは、

 

ちょっと浅い捉え方です。

 

死ねって書いた方が100%良かったんです。

 

自分のホントの気持ちを見てあげて、表現すること。

 

すごい癒し効果です。

 

だって、「死ね」と殴り書いたあとは、ホントに健やかに寝たようですから(笑)

 

彼女は、ザ・引きずらない女王ですから。

 

引きずる女性は、

「我慢している感情を見ない、出さない」

ということをしている可能性が大変高いです。

 

それはよろしくないです。

 

死ねって書いた方がいいです。

 

みなさんも、ダンナに対して、

「シンデクレェー」

と腹の底で思っていることに気づいてしまったら、

 

「死ね」

 

と殴り書いて見てください。

 

著者:クリストフ アンドレ 他2名
「自己評価の心理学」―なぜあの人は自分に自信があるのか

 

という本の中でも、非常に推薦する方法として書かれています。

 

、、、、本人には見せず、ビリビリに破くか、燃やしましょう、と書かれてますがね。。。

 

 

以上、國井家劇場、解説編でした。

 

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写真は國井家劇場の舞台。

 

自然造形空間アーティスト野口さんによって創り上げられた、洞爺湖の我が家です。

 

おそまつ!

子どものあるがままを受け容れる、という具体例を1つ紹介。

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この絵は洞爺の我が家の駐車場に、次女が描いてたものです。

 

 

今日は、小学3年生の長女に対しておこなった

 

あるがままを受けいれてみた

 

ことについて書きます。

 

よく、「子どものあるがままを受けいれなくてはいけないよ」という言葉に出会います。

 

本の中でもよく見かけます。

 

でも、それって、なにをすればいいの??

 

子どもが甘えてきた時、わがままを言ってきた時も、やらせてあげなきゃいけないってこと!??

 

と、疑問に思ってました。

 

大学から福祉の勉強をして、仕事も福祉の仕事に就いた僕としては、

「あるがままを受けいれなくてはダメだよ」

というのは、耳にタコができるほど、触れてきた言葉です。

 

自分でもそう思って意識しようとしてましたが、具体的になにをすれば良いのかよくわからない。

 

それの方法がようやく分かってきました。

 

 

1、根本的な問題を特定する

 

2、行為感情に分ける

 

3、感情を受け容れる

 

 この3段階で進めます。

 

 

この前の土曜日は娘の小学校の学園祭でした。

 

ですが、この日は東京に会議のため出かけるので、僕は行けませんでした。

 

そのことを娘に伝えたところ、

 

「えーー!一緒に行けないのーー!」

 

と、ムスッとしてしまいました。

 

その後、

 

長女「今日はなにするの!?」

 

僕「そうだねー、今日は草刈りだね。」

 

長女「えー!やだ!草刈りしたら、友達来た時に草で遊べなくなるからやだ!!」

 

僕「いやー、、、今日しかやるチャンスないから、草刈りやりたいんだよね」

 

長女「絶対ダメ!畑の方だけにして!」

 

僕「うーん。。。それじゃあんまり意味ないんだよな。。。」

 

長女「ダメ!畑のところだけ!」

 

僕「そしたら、畑だけにするかな〜。。。」

 

長女「やっぱり全部ダメ!草刈り全部やっちゃダメ!」

 

僕「えー!さっきと言ってること違うじゃん。」

 

長女「ダメなの!今日は草刈りやんない!」

 

 

、、、、、、というやりとりをしてました。

 

ここでたいてい陥りがちなのが、なんとかおさめるために、草刈りをやらない、という選択をしてしまうのですが、それでは、長女はおさまらないのは明らかです。

 

それはなぜか。

 

ここで長女は、

 

草刈りが嫌。。。

 

というわけではなく、

 

学園祭にお父さんと行けないのが悲しい

 

のです。

 

上記    1、の問題特定です。

 

そこで、

 

僕「そうか。〇〇〇(長女の名前です)は草刈りが嫌なわけではなくて、学園祭におっとーと行けないのが悲しいんだよね。」

 

と、伝えたところ、

 

長女は号泣し始めました。

 

長女「なんで!なんで東京行くの!お父さんと一緒に行きたかったのに!!行けると思ってたのに!やだ!絶対東京に行って欲しくないー!」

 

と言いながら、号泣。

 

長女「学園祭に行けないじゃん!もうーー!」

 

長女「だんで!だんで!ぼうーーだだーー!」

訳(なんで!なんで!もうーーやだーー!)

 

泣きすぎて、言葉がだいぶ「だぢづでど化」してきました(笑)

 

この時期、嫁が寝込んでいたこともあり、僕が学園祭に連れて行けないイコール学園祭に行けない、と思っていることもわかりました。

 

そこで、

 

僕「学園祭に行けないかもしれないとも思ってるんだね。それは大丈夫。おっかーがもし連れて行けなくても、誰か友達のお母さんにお願いして連れて行ってもらえるように必ず準備するから学園祭には絶対に行けるよ。」

 

とまずは、学園祭には行けることを確定してあげました。

 

そして、

 

僕「おっとーはどうしても行きたい仕事があるから、東京に行くね。〇〇〇の期待に応えられなくてごめんね。おっとーと行きたいと思ってくれてたんだね。ありがとう。その気持ち、嬉しいよ。おっとーと行きたかったんだよな。行けなくなって悲しいよな。ごめんね。」

 

と伝えると、

 

 

。。。。無言に。。。

 

 

そのまま、10分ほど沈黙が続きました。

 

そして、僕は他にやることをしに、その場を離れました。

(切り替えるには僕が目の前にいない方が良いだろうとも思いました。)

 

5分ほどで帰ってきたら、

 

長女「これから栗拾いに行くー!!」

 

とケロッとして、

 

笑顔になってました。

 

 

 

とまぁ

こんな感じでした。

 

 

このやりとり内での

2、行為感情に分ける

 

については、

長女が期待してる行為としては、

 

学園祭にお父さんと行く

 

でした。

 

そしてその時の感情は

 

お父さんと一緒に行けないのが悲しい

 

でした。

 

なので、この2つを分けて考えます。

 

そして、行為は

受容しなくてもいいのです。

 

これが非常に重要なポイントです。

 

一緒に学園祭に行けないのであれば、「行けないよ」としっかり伝えた方が明らかに良いです。

 

変な罪悪感から、やっぱり出張はキャンセルする、というのは絶対に避けなければいけないことです。

 

子どもにも、

 

自分の期待通りに他者が行動してくれるわけではない、、

 

という経験をぜひ積ませてあげてください。

 

 

そして、


3、感情を受け容れる

 

です。

 

お父さんと一緒に行けないのが悲しい

 

この気持ちを

 

1、見てあげます。

 

そして

 

2、伝えてあげます。

 

そして、

 

3、悲しい気持ち、わかったよ。そうなんだね。悲しくさせてしまってごめんね。

(でも、学園祭には行かないよ。。。と心の中では思っている)

 

と伝えます。(受け容れてあげます。)

 

すると、娘としては、お父さんと行く、ということは叶わないものの、自分の気持ちをお父さんは理解してくれてる、わかってくれてる、と感じます。

 

そして、親への信頼感も高まります。

 

すると、イライラした気持ち、悲しいという気持ちがやわらいできます。

 

そして、子どもはすごいですね。

引きずらずに、すぐに次の遊びに入っていく。

 

 

と、こんな出来事がありました。

 

あらためて、

問題の特定

は難しいなぁと感じましたし、

 

行為

感情

を分けて、

 

 

感情

を受け容れる

 

ということのすごさを実感しました。

 

僕が考える

あるがままを受け容れる

というのはこういうことです。

 

今の感情、気持ちを見てあげて受け容れてあげること。

 

そして重要なことが

行為は叶えてあげる必要はない

ということです。

 

 

今日は長くなりましたので、この辺で。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

この自分で生きていこう。そう思えるようになる方法。

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自分でいい。

 

この自分で生きていこう。

 

そう思えた時ってあったかなぁ、と振り返ってみる。

 

 

 

、、、、無かったなぁ。。。

 

 

思えない。

 

自分は、記憶力が悪いから、メモも溜まり放題。

 

言われたことをやろうとして、次の依頼があると、前のことは完全に忘れてる。

 

嫌なことがあると、すぐに逃げたくなる。

 

今日やるべきことを明日に回す。

 

締め切りがギリギリになってようやく取り掛かり、周りを巻き込み迷惑をかけながら、ギリギリセーフで終わらせる。

 

嫁に内緒でドラクエ5のアプリを1800円で買って、コツコツ少しずつやって、レベル40になって、死闘の末、エンディングを迎える。

 

 

 

そんな自分に出会うたび、うんざり。

 

ため息が出る。

 

 

だから、自分のいいとこを探してみる。

 

目の前にいる人には真剣に向き合おうとする。

 

人当たり良く、人に不快な思いをさせないように振る舞える。

 

相手のプライドを傷つけないように、話を進められる。

 

つらい気持ちでいる人に、そのまま寄り添える。

 

ブログを書くと、その文章に喜んでくれる人がいる。

 

職場の機関誌の連載でも、感動してくれた人がいる。

 

子どもたちは、僕のことが大好き。

 

 

 

 

この「いいとこ探し」をやっていくと、

 

 

いいとこが見つかったり、

いいことができてる時は元気になれる。

 

 

 

でも、

 

これは、一時的で、

また嫌な自分が出てくると、身動きができなくなる。

 

とたんに落ち込む。

 

 

この繰り返しでした。

 

本当に。

 

だから、やっぱり、なんかやらないと、

自分に対して、

 

自分すごいね!

 

って、見せつけてあげないと、安心できない。

 

そんな感じでした。

 

だから、何もやらない、できない日は激しく落ち込む。

 

 

本当にどうしたらいいかわからなかった。

 

 

でも、ようやくヒントが見えました。

 

 

それは、

 

 

自己受容です。

 

自分の、いいとこ探し、ではない。

 

自分の

 

ダメなとこ受け容れ

 

これです。

 

 

そして、その方法が少し見えてきました。

 

 

その方法というのは、

 

「感情を受け容れる」

 

ということ。

 

 

 

もうちょっと言い方を変えると、

 

「今感じてることをそのまんま見てあげて、受け容れること」

 

です。

 

だから、

嫁に隠れてビールを一本、二本、三本と開けて行って、パスタを茹で始め、卵を割り、と本格的に夜食を作り始めた自分を見てがっかりしている時に、

 

「そうだよな。飲みたかったんだよな。これからの仕事に対して、先行きすごい不安だし、自分の今の能力と向き合うのがこわいんだよな。それに対して嫁にいろいろ言われるのも、やっぱりつらいんだよな。自分のこと大事にされてない感じ、したよな。だから、飲んじゃったよな。」

 

と、自分に言ってあげるんです。

 

行為と感情は分けます。

 

飲むことという行為は受け容れなくても良くて、

 

飲みたくなってる気持ちを受け容れてあげる。

 

これが自己受容です。

 

これは、自分にだけでなく、他者に対しても大変効果的です。

 

例えば、嫁。

 

例えば、子ども。

 

 

例えば、会社の同僚、上司。

 

親。

 

みんなに適用できます。

 

次回は、長女に対してやってみた、

 

他者受容

 

の記事を書きたいと思います。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

ブログを書けなかった最大の理由を暴露ります。

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ブログをしばらく書けていなかったのですが、ようやく正直にその理由を書くことができる気持ちになったので、それを今日は書きます。

 

なぜブログを書けなかったかというと、、、、

 

書こうとすると、

 

自分の優越コンプレック向き合いたくなかったからです。

 

優越コンプレックス、というのはアドラー心理学の用語です。

 

優越コンプレックスとは、劣等コンプレックスを持った人が、困難から逃れる方法。

(個人心理学講義p45、アルフレッド・アドラー)

 

要するに、大きな自信のなさを覆い被して隠すために、優越感を使う、ということです。

 

例えば不良の少年などは、教師に悪態をつきます。

彼らは、勉強などができなかったり、他の生徒などより劣っている部分を知っています。

ですが、悪ぶる態度で力を誇示することで、みんなより強いのだ、とアピールしています。

 

そうです、彼らは臆病なのです。

 

 

、、、、

 

 

そうです、僕も臆病だったのです。

 

それゆえにブログが書けなかった。

 

書こうと思うかネタはいくつもありました。

 

5月頭には、

北星余市高等学校の存続のために頑張っていた活動をNHK札幌が取材してくれて、特番に数分出ました。

 

5月末には、

日本グループホーム学会でより「障害のある人のグループホーム設置・運営マニュアル」という本が発行されまして、僕は4章を執筆しました。

 

これ、、、、全部、、、、、

 

 

「僕を見て!がんばってる!褒めて!すごいでしょ!」

 

みたいな痛々しい自慢なんですね。

 

しかも、それを気づかれないように書こうとしたりして、余計なんか気持ち悪い感じです。

 

そんな自分の部分をはよく理解していて、

 

「おっとーのブログなんか嫌な感じ」

 

全否定してきてました(笑)

 

はは(笑)

 

その理由がしばらくわからなかったのですが、

僕の劣等コンプレックでした。

 

僕のなんか自慢しようとする感じ。

 

これなんだよね。

 

自慢してないと、

人より優れてる感をアピールしてないと、

自分のことを人に見せられなかったんです。

 

それにようやく気付けました。

 

というか、そんな自分と

 

ようやく向き合えました。

 

そうなんだ。

 

自慢して、「すごいね」とか言われたかったんだ。

 

そんなダサダサな自分こそ、、、、

 

自分なんだ。。。

 

これこそ自分なんだ。

 

そう心から思えるようになって、

ようやくブログを書けるようになりました。

 

では、なぜブログを書けるようになったか。

 

それは、

 

自分の感じている感情をひとつひとつ大切にしてあげた。

 

だからです。

 

これによって、ようやく

 

自己受容の本質

 

を垣間見ることができました。

 

今、自己受容に関する書籍を大量に買い込んで、猛勉強中です。

 

僕だけでなく、みんなに自己受容の本質を実感してもらいたい。

 

だから、みんなもできるようにするために、研究してます。

 

第一回として、

 

9月20日火曜日

10:00〜11:30に、

 

苫小牧にて、

「やさしさと繋がるお話し会」

 

開催します。

 

良ければ、ご参加ください。

 

僕がやった自己受容についての記事は近々アップします。

 

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。

 

子どもはお手伝いが好きなわけではない。『大人を喜ばせる』ことが好きなのである。

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我が家の8歳と5歳の娘は、お手伝いが大好きです。

 

料理、洗濯、片付け。

 

なんでも大好きです。

 

その姿を見ていたので、

 

「子どもは本来的にはお手伝いが好きなのではないか」

 

と、感じていました。

 

でも、そう思いながら言葉にしてみると、やっぱり自分の中に違和感が出てくる。

 

お手伝い嫌いな子もいるよな、、、、と。

 

じゃあ、お手伝いの好きな子と、嫌いな子の違いはなんなのか、と考えたところ、おそらく、

 

「お手伝い」という行動が、

 

1、大人を喜ばせるもの

 

という経験をしているのか、

 

2、やらされるもの

 

と感じているのか、

 

この違いなのではないか、と思いました。

 

誰かのことを喜ばせることができる、という体験は、大人にとってもすごくすごく大切だと思ってます。

 

子どもにとっても同様だと思います。

 

だから、人間にとって、「誰かを喜ばせる」という体験は、非常に大事だろう、と思っています。

 

僕も忙しい時に、どうしても投げやりに子どもに手伝いを頼む時は、やっぱり、2の「やらされてる感」が出てしまって、なかなかやってくれません。

 

だから、少しでも手伝ってくれた時はできるだけ、僕の「喜び」を伝えようと思っています。

 

「褒める」では無いんです。

 

「褒める」だと、

「次に手伝いをさせるための布石だな、、、」と、大人の意図を感じてしまうし、

上から評価されてる感もあるし、

「親に都合よく動かされた」というような、操作された感を感じる子もいるかもしれません。

 

だから、親としては、手伝ってもらって「嬉しい」という喜びや、「ありがたい」という感謝を感じれるような自分で在りたい、と思っています。

 

親側がちゃんと、嬉しい、という気持ちを感じていないのに、義務感から子どもに感謝しなくてはいけない、と思って「ありがとうね」と伝えても、うまく伝わらない可能性が高いし、そのやり方は長く続きません。

 

だから、育児って、子どもに働きかける方法、ではなく、

 

『自分に働きかける』

 

ということがいかに大事なのか、ということを、最近実感してます。

 

子どもと一緒にいて、喜びを感じれる自分を作っておくこと。

 

これが、育児の究極の技ではないか、、、、、

 

と思っています。

 

少し話しが逸れました。

 

今回のまとめとしては、

 

 

子どもはお手伝いが好きなのではなくて、

大人を喜ばせることが好き!ということ。

 

なので、大人を喜ばせることを、どんどんやるようになります、ということです。

 

だから、子どものお手伝いを喜べる自分を作り、、、、、、たいけど、みんな忙しいですよね。。。。

 

だから、子どもにも当たるんだ。。。

 

それは当たり前だ。

 

 

でも、そう思うんです。

 

喜べる自分をつくりたいです。

 

 

今日はこの辺りで。

フウフカイギ議事録 vol.2 〜〜「自分時間」と「他人時間」〜〜

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「自分時間」


「他人時間」

どちらの時間で、今、生きてますか?


これは、仕事をしている時でも、
家族と過ごしている時でも、
家で一人でいる時でも、

どんな時でも、

「自分時間」 と 「他人時間」

どちらかの時間を生きていると捉えられる、ということです。

どちらの時間ででも生きることができる、ということに今日、嫁と話していて気づきました。

僕は他人の目を気にして生きている時間が非常に長いので、

昨日なんかは、「ほぼ丸一日」が「他人時間」でした。

朝は、嫁が怒るだろうから、と勝手に決め付けて、早めに起きて、洗濯をする。(嫁は別に怒らないのに)

仕事をしてても、同僚や、上司が僕のことをどう見てるかな、ということを意識して、仕事を選んで行う。

家では、みんな寝静まっている中、ビールを飲みながらも、完全に一人なのにもかかわらず、メールやらを返さないとな〜、こんなダラダラ動画を見て過ごして何やってんだ、、、、、とか思いながら時間を過ごしている。

どれも、「他人時間」ですね。

「他人時間」で過ごしていると、すごく不自由です。

疲れます。

人のせいにします。

イライラします。

落ち込みます。

何もする気がおきなくなります。


でも、今日の後半は「自分時間」で過ごせました。


誰かに決められるのではなく、

誰かの目を、評価を気にするのでなく、

今日、嫁と話して気づけたことを、このブログに書きとめたかった。

今、こうやってブログを書いている時間は、まさに「自分時間」です。



ちなみに、「自分時間」と「他人時間」は僕が考えた言葉です!

なかなか、使い勝手良し!


そして、今日から、ブログの文字数、短めにしてみます。

長い時は6,000字くらいの時もあったので、

今後はこのくらいで、800字ほどにしてみようと思います。

ですが、やると宣言しちゃうと僕の場合、途端にやる気を無くす(義務感が出てくる)傾向にあるので、そんな風に書こうと、今は思ってます。と書いておきます。

今日も、読んでくださり、ありがとうございます。

「大人と子どもを繋ぐもの」それを作りたいです。

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松下電器(現パナソニック)の創始者の松下幸之助さんは経営の神様と言われていて、非常に多くの名言を残しているそうです。

僕は大学の時に福祉学科で、なにか貧困の問題なんかも聞いたりしていて、お金というものはとても汚いものだと考えていた節があり、会社の社長や経営者というのは、なにか良くない輩だ、という感覚を持っていました。

ですが、今はお金に対する感覚もだいぶ変わってきまして、松下幸之助の言葉なんかを聞くと、かなり胸に迫るものを感じます。

その中で一つ感動したものを今回は書こうと思います。

なにかの講演会の録音です。

以下、松下幸之助の言葉。


〜〜〜〜〜
『仕事に期するもの』

仕事をすることの喜びとか、目的とか、意味というのを持たなくてはいけない、と僕は思うのであります。

これが必要ない、目的も使命感もない、それはあり得ない。
なにか期するものが必ずあるはずであると、思うのであります。

そういうものを持っていない人は話にならない。
けしからん!と。

なぜその仕事をしているのかと。

そのけしからんは、君自身に対してもけしからんし、
社会のとってもけしからんのだと、思うのであります。

君は社会にとって尊いものなんだ。その社会にとって尊いものとして、もっと君を活かしてもらわにゃ困るのだ。
そういうことが言えると僕は思うんです。

お互いにそういうことを言い合えると思うんですね。 

〜〜〜〜〜〜

以上です。

途中の、「仕事の意味を見いだせていないのはけしからん」

という言葉を聞いて、

うっ、、、きついこと言うな、、、と一瞬かんじましたが、
その後がすごかった。

君は社会にとって尊いのだから、仕事の中で自分を活かしてほしいと。

そうでないと社会にとって損失だと。

そう言ってくれてるんですね。

松下幸之助は学校に行ったことがなく、自分には学がないと思っていたそうです。

だから、どんな若者だろうと、自分より学があるだろう、この若者からきっと学ばせてもらえることがある。
そういう気持ちで新入社員にも接していたそうです。

これはすごいことだと思うんですね。

この謙虚さ。

松下幸之助は、幼少時代貧乏で、丁稚奉公に出ています。そして、若くして両親を亡くし、兄弟もたくさん亡くしています。幸之助さん本人も病弱だったそうです。

そこから這い上がってきた力は、「なにくそ!」という反骨精神というよりは、「感謝する」力のように感じます。

だから、新入社員に対しても、謙虚に真摯に学ぶ姿勢を持って接している。

新入社員からしてみると、そんな態度で接してもらえたら、どれだけ勇気が沸き立つことだろう。

こんなでっかい人間に出会ってしまったら、
「社長!付いて行きます!」
そんな気分になって、力を発揮できたんだろうなと思います。

僕は今の日本が元気になっていく上で必要なこととして、

「大人と子どもをつなげること」

が、とても重要だと考えてます。

それには、大人が真に子どもたち、若者たちを信頼できるか、ということが重要だと思うんです。

それを松下幸之助さんはやっていたのだろうな、と思いました。

「社会にとって君は尊い」

この言葉を本心から発することができる人が、世の中にどれだけいるか。

こういう名言って、今やネットで検索すればすぐにたくさん出てくるけれども、その言葉が生まれるまでには、その名言を発した人の人生分の思いと重みがあるわけで、ちらっと僕が見ただけで、その言葉を自分が扱うことは相当難しいと感じます。

でも、その深さに思いをはせることはできますね。

だから、

「社会にとって君は尊い」

ということを心の底から言っていた人がいた、という事実が僕に勇気をくれるのだなと感じました。

僕も僕の言葉で、子どもたちに勇気を沸き立たせたい、とそう感じさせてもらう言葉でした。

不登校の子どもたちにも声を大にして言いたい。

「社会にとって君は尊い。
だから、社会のために自分を活かしてほしい。」

不登校の君の先。

君が人生のその先で関わる人たちがいる。

君が仕事をすることで、その人達を幸せにするかもしれない。

そのダイナミクスを生み出したくて、僕は不登校の子どもたちとこれからも関わっていこうと思います。