若者よ。「自分マスター」にジョブチェンジしよう。〜N高等学校について語る〜
「信念」とは。 僕が考える信念の意味。
信念という言葉の意味を調べてみると、
「正しいと信じる自分の考え」
と、あります。
揺るぎない、自分の考え。
疑いを持たない。
なんかも書いてありました。
これだと、ちょっと、誤解を感じるというか、
正しいと感じていて、間違っていても、それを崩せない状態になっている気がしてしまいます。
これはちょっと危ない状況で、
「信念を貫く」
ってかっこよい印象を受けますし、
信念を曲げるなんて、ちょっと意志が弱い人、みたいに感じます。
でも、実際自己受容がきちんとできている人は、
自分が間違っていることを他人から指摘されても、
防衛的になるわけではなく、
「・・・たしかに、その通りです」
と受け容れることができる。
こちらの方が俄然かっこいい。
それに、しなやかな「強さ」も感じる。
僕は、「信念」というものを二つに分けられると思っていて、
「無意識の信念」と「意識的信念」です。
「無意識の信念」は、生きてきた環境の中で、親、兄弟、学校の先生、地域の人、友達、テレビの情報、教科書、本、その他もろもろの情報を自分なりに感じて、
「およそ、世界ってこんな感じで、人間てこんなもので、自分はこういう人間だな」
という漠然としていつつも、非常に強固な考えを手にするように感じます。
その「無意識の信念」に自分という人間は結構しばられている。
「意識的信念」は、先覚者と言われる人によく見られます。
「それでも地球は回っている」
とか、
吉田松陰の
「かくすればかくなるものと知りながら止むにやまれぬ大和魂」
です。
時の法律に背けば命を落とすことも百も承知なのです。
でも、「止まれぬ(やまれぬ)」のです。
止まらない。
自分の中に止められない、背けない、自分の中の信念。
これが、僕が感じている、意識的信念です。
ぼくらは誰でも、自分なりの「無意識な信念」を形成していると思っていて、
それをちゃんと意識化して、もう一度見つめ直すことが生きていく上で、非常に大切なことだと感じます。
そして、信念にはもう一つ隠れた意味があると思っています。
それは、信念という文字を分解すると見えてきて、
「念」、は「今」と「心」に分けられて、
「信」、は「人」と「言」に分けられます。
ということは、
「今の心を人に言う」
となります。
これはやばい。
現代に生きる僕たちは、
「今の心を感じる」ということをできるだけしないようにして、
感覚を麻痺させることによって、社会や学校に適応させている、
と僕は感じています。
だって、「今の仕事、やっぱりつらい」とか
「学校、苦しい」と感じたら、
退職とか、不登校になる。
これは、自己価値観を大きく揺るがされることになる。
だから、「感覚を麻痺させる」というのは、現代を生きる非常に有効な手段だと思ってます。
みんな無意識にやっている。
そこに来て、「信念」という言葉は、「今の心を人に言いましょう」とメッセージを送ってくる。
今の心を感じてあげる。
そしてそれを、一人称の「人」、「自分」に言う。
宣言する。
「私は今、つらかったんだ」
と。
そして、それを二人称の「人」、信頼できる「他者」に言う。
「私は今、つらいんです」
と。
そして、最後に三人称の「人」、「その他大勢」に言ってみる。
「私は今、つらいです。」
こうやって人に自分の気持ちを伝えられるようになることは、
ものすごく自己受容を促進させると思います。
それだけでなく、他者ととても良い関係を結ぶ上でも、
自分の心を明らかにしていくことは、大変重要なことだと思ってます。
「つらい」だけでなく、「今私はこう感じてます」ということは、とても、とても良い感じがする。
これは、このブログの題名「リアリティは突き詰めればつきつめるほど、自分にやさしい」と、ピッタリ一致しています。
今の心を人に言う、というのは、リアリティを突き詰めることです。
そして、それは、自分にとってやさしい。自己受容を深めることにつながる。
他者ともつながれる。
そして、ガリレオや、吉田松陰のように、自分が「これだ」と思う信念を持つこと。
自分の中にあらがえない、信念が生まれること。
これはすごいし、ある意味、羨ましい。
自殺に向かう若者を大量に生み出す社会を絶対変えたい。
これが僕の信念です。
と言いたい。
かっこつけたい。
もうひとつ感じることがあって、先ほど書いた、「無意識な信念」によって、
自分を苦しめる、「自己否定システム」が自分の中に形成されて、
自殺に突き進んでいる。そんな気がする。
先日、九州からこの北海道まで訪れてくれた友達家族が、すごいギフトをもってきてくれて、
「監視の内面化」という言葉を教えてくれました。
この言葉の意味するところの深さをまだ僕は扱いきれないので、さらっと説明になり恐縮ですが、
ようするに、社会だとか、他者が監視する目を自分の中に組み込んでしまうこと。
これが現代かなり進んでいる、と友達は言っていて、ぞっとしました。
でも、実感ある。
この仕組みで、昔戦争へと、民衆が突き進んだように感じる。
先ほど書いた「自己否定システム」ともつながる。
この「監視の内面化」「自己否定システム」を、今の子どもたちに植え付けてはいけない。
「無意識な信念」を「意識化」して、「今の心」を「人に言う」。
「信念」が自分を救ってくれて、
子どもを救う気がしてます。
不登校という爆発力の事例 シールズ奥田愛基さん
信頼と信用の違い
自殺予防の権威に会ってきました。
否定でもなく、肯定でもなく、受け容れるということ
今日から新学期を迎える人も多いと思います。
前回のブログで、18歳以下の自殺者数が、夏休み明けの9月1日に集中している、ということを書きました。
kuniikatsuhiro921.hatenablog.com
たくさんの方がリンクをシェアしてくださって、
239件のフェイスブックのリンクシェアをしてくださって、
ブログの記事は、800ビューを超えていました。
僕が今まで書いたブログの中で、最も多いビュー数でした。
不登校している子、学校が苦痛な子など、学校を取り巻く環境や集団、人間関係に苦しんでいる子どもたちが少しでも楽しく暮らしていけるように、
とにかくこの9月1日を乗り切ってもらいたい、と願っています。
自己肯定感、自己価値観、自己重要感、自尊感情、セルフイメージ、など、自分のことをどう感じるかということについて、様々な言葉があります。
僕は、その中でも、「自己受容が深まる」という言い方が、今のところしっくりきています。
「自己肯定感が高まる」や、「自尊心が高まる」というのも、良いのですが、やはり、高まったら、その後下がったりするイメージがあるし、悪い意味でのプライドが高まると捉えられなくもないし、ダメな自分を無理やり「肯定」する感も感じるなと思いました。
それよりも、「自己受容が深まる」がなんかいい。
どんどん高まっていく、というより、静かに深まっていくイメージ。
自分の弱さなども、見つめ、受け容れ、自分と統合されていくような感じ。
これが良いと今は感じてます。
自己受容を深めるのに、最も効果的なことは、自分のことを受け容れてくれる他者の近くに出来るだけ長くいる、ということだと思います。
そして、自分のダメな部分をその人たちの前で表現してみる。
言葉で伝えるでもいいし、文章でも絵でも良いと思う。
その上で、自分の存在を受け容れてもらえる経験を通して、
自己受容が少しずつ深まっていく、と思います。
もし、今、苦しんでいるとしたら、その苦しみを、身近な信頼できる人に、
「今、自分はこんな苦しみがあるんだ」と伝えてみてください。
誰もいなければ、僕にメールしてもらっても良いです。
921katsuhiro@gmail.com
今日という日を、子どもたち、なんとか乗り切ってください。
学校が苦しかったら、行かなくたっていいです。
行かない方がいい。
親や先生方も、学校に行かなくたって大丈夫、って思ってあげてください。
自分のことを否定するでもなく、肯定するでもなく、受け容れる。
自己受容を深めていきましょう。
ちかくにあった紫陽花です。
9.1自殺(夏休み明け自殺)を、1人でも少なくする!
不登校新聞というものをとっているのですが、平成26年の自殺の統計について書かれていて、衝撃的な内容があったので、書きたいと思います。
内閣府が過去40年間の累計日別自殺者数を独自集計しています。その中で、18歳以下の子どもの自殺は、4月や、9月の休み明けに突出しています。中でも、9月は恐ろしい程突出しています。
この図。
びっくりです。
ようするに、夏休み明けに、子どもたちが大量に自殺している。
この表を見るだけで、いろいろなことを感じます。
① 自殺未遂者や、「死にたい」と密かに考えている人も、夏休み明け前後に大量発生している。
この表の数字は、「自殺既遂者」です。自殺を完遂できた人の数字のみ。
ですが、自殺既遂者は氷山の一角です。
その氷山の下の方には、
◎「自殺未遂者」
◎「死にたい」と悶え苦しんでいる子
などもいます。
だから、この夏休み明け前後には、全国で、苦しんでいる子どもたちが大量に発生していると見ていいです。
② 「学校」という場と、自殺に深い関連性がある。
夏休み明け、ということは、「学校」なんです。
学校にまつわることで、自殺につながっている。
いじめがまた始まることを恐れてなのか、
勉強ができない自分を思い知ってしまうことを怖れてなのか、
先生を恐れてなのか、
部活を怖がってなのか、
学校にまつわる、「人」や、「集団」や、「他人の目や評価」などを恐怖に感じつつ、学校に行かないという選択肢を取ることができない。
プライドからなのか、親が許さないのか、世間が許さないのか、学校が許さないのか。
子どもにとって、人生のすべてのように感じる場「学校」。
そこが苦しい場である時に、「不登校」という選択肢がなくて、自殺をする人が多いようです。
何人もの精神科医や、カウンセラーの方が、「不登校できれば自殺せずにすんだ」というケースがあることを指摘しています。
いろんな生き方がある、ということを受け入れない日本の空気感。これが、学校を離れられないという子どもの精神状況を作り出し、追い詰めているのだと思います。
③ 夏休み明けというのは、不登校児の親が「このきっかけで再登校してくれるかも」という期待をかなりかける時期
夏休み明けは、不登校児にとっては地獄です。周りがざわざわと新たな生活を始めている中で、自分はなにも変わらない生活を送り続ける、なんてダメなんだという気持ちを感じてしまいます。とにかく「他者」や「世間一般」と自分を比較して、苦しみます。
そんな中、親や、周りも、この2学期から行けるのではないか、と期待をかけます。
この期待がさらに追い詰めるのです。
以上に見てきたように、子ども自殺について、夏休み明けが、最重要キーポイントのようです。
そして、自殺という究極の状況まで行かずとも、「もう死にたい」という言葉を心の中で唱えまくる子どもたちが大量発生するのです。
というか、今は8月15日。
北海道や寒冷地などでは、夏休みが終わり2学期が始まるのが、8月20日くらいなので、もう今頃、悶絶している子どもたちが増えてきていることと思います。
なんとかしてあげたい。
そこで、子ども達と、大人たちへ、メッセージを書きます。
子どもたちへ
今、本当に苦しいと思う。
とにかく生き延びて、そこに存在できていて、この文章を読んでいてくれたとしたら、
まずそれについて、「ありがとう」と言いたいです。
今感じている苦しみが、いつか必ず得難い財産のような時間に変わる時が来るはずです。
それを信じて、生きていってほしい。
そして、学校なんていうひとつのものさしによって、君の価値を測ることなんて絶対にできない。
君の存在をおとしめるような、学校、大人、友達、親、がいたとしても、そんなものはたったひとつの見方でしかない。
どうか、そことは別の外の世界に、自分の場所を見つけ出して欲しい。
違う学校。違う地域。違う人々に出会うことで、今までの自分の評価ってなんだったんだろうと、脱力すること請け合いです。
必ず君が輝ける、自分の命を燃やせる、楽しくてしょうがない場所があるはず。
今はその場や、人に出会えていないだけ。
とりあえず、学校なんて行かないでいいので、自分の気持ちを安定させて、その後新たな場に飛び立って欲しいと、僕は思ってます。
そして、君に、もし少しでも余裕があるなら、自分の周りにこのような苦しみにもがいている友人がいれば、その友人に、このメッセージを送ってあげてください。
大人たちへ
子どもたちは、学校で苦しみながら、その学校から逃れられない、と考えています。
そこを変えなくてはいけない。
そういう空気を僕らが率先して変えて、いかなくてはいけないと、僕は思ってます。
僕ら大人が作り出している「空気」が子どもたちを自殺に追い込んでいます。
ちゃんと勉強して、大学を卒業して、就職する。
このようなステレオタイプ的な、シンプルストーリーに、子どもたちを押し込めようとしている、僕らの感覚があります。
僕らが子どもたちを信じる必要がある。
そして、子ども達と一緒にこれからの社会を作っていこうとしなくてはいけない。
「正しさ」というハンマーで子どもの頭が出たところをモグラ叩きなんてしてないで、
出た頭を引っこ抜いて、「お前はおもろい!」と伝えて、がんがんやらせて失敗もさせる。そういう大人でありたい、と僕は思ってます。
大人のみなさんとも、これからの子どもたちを取り囲む空気をおもしろいものに変えていけるように、いろいろと話していきたいです。
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夏休み明けに伴う自殺者がひとりでも減りますように、と祈ってます。
先日バーベキューをした時に、目の前に広がってた景色。
家から車で5分ですね。
最高でした。