生きづらさをやさしさに変える くにい かつひろ

繊細すぎて苦しかったその生きづらさこそが、人を癒す力になったと感じてます。 くにいかつひろ

活字が読めないことが、コンプレックスでした。

 数日ぶりのブログアップです。
 
最近いろいろと本を読んでいるのですが、僕は3年前くらいまで活字が全く読めませんでした。 
 漫画が大好きだったので、絵が入っていないと全く読む気になれなくて、読み始めてもすぐに眠くなってしまうので、活字なんてどうやって読めばいいのか、と途方に暮れていました。
 それと、「活字を読む」=「勉強」と感じてしまっていて、勉強なんて辛いもの以外の何物でもないと思っていた僕にとっては、活字を読むのは「我慢をして取り組むこと」という意味合いになっていました。
 また、中学校時代、嫌いだったサッカー部の顧問が文学の授業だった(たしか。)ので、国語的なものに対するアレルギー反応は、ますます高まってしまっていました。
 なので、本を読むという事に関して、劣等感がものすごくありました。最近の活字離れ、という話がありますが、まさにそれが僕でした。
それでも、なんとか大学までは生きていくことができました。というのも、高校は受験勉強全く必要なく入学できたのと、大学もキリスト教指定校推薦という、面接のみで入れるという、裏口入学みたいな形で入学したので、活字を読まずになんとかなりました。
 高校はすごくて、入学試験の終了時刻になった時にチラッと隣の解答用紙を見ると、白紙でしたが、その人がなんと入学式の時にいました。
 白紙でも、面接でやれると判断されれば入れる学校でした。
 大学に入ってからも、活字が読めなくてもなんとかやっていけていました。
 ですが、卒論が大きな壁でした。自分としては考えてみたいテーマはあったものの、いかんせん活字アレルギーの僕には太刀打ちできない読書量が要求されたため、あえなく撃沈しました。
 卒論とれなかったために、社会福祉士の受験資格を取れず、先日のブログにも書きましたが、昨年度通信学校にて受験資格取得のためにレポート課題をやっていました。
 この通信学校に入学するのと、教材、スクーリングのための旅費(洞爺湖から札幌に行かなくては行けない)などで、計20万円強の金額が飛びました。
 内心、勿体無い、と思っていましたが、この1年で20万円なんか安い!というぐらいの経験ができました。
 それは何かというと、「文章を書くことがすごい楽しい」ということに気づけたからです。
 毎月2本、1200字のレポートを書いていました。これはなかなか大変で、本も買ったり、借りたりという感じでしたが、10本目を書く頃には、なにやら楽しくなり始めていました。
 自分なりに意見をまとめて、期日ギリギリに1200字にきっかり仕上がるあの感じにカタルシスがありました。
 それと、勉強をしたり、本を読むときに、レポート作成というアウトプットが前提にありながらだと、頭への入ってき方が俄然違いましたし、おもしろく感じられました。
 勉強って面白くなるもんなんですね。
 新渡戸稲造の「教育の目的」という文章の中に、「教育とは娯楽である」という箇所があります。
 まさにそう。
 勉強なんて、好きなことであればものすごい吸収力で身につく。
 活字を読めるようになったきっかけの本のタイトル。どうしても思い出せなくて、すごく悔しいですが、とにかく本を読むことで「自分が生まれ変わっていくような感覚」があったことを記憶しています。これはすごい!と思ったような気がします。
 コンプレックスだった、「活字が読めない」というものが、いまや自分の娯楽のうちの欠くことができないものに変わっているというのがびっくりです。
 でもこういう逆転ってありますね。
 だから、自分のことでも、「自分は活字が苦手だ」とか言い切るのは、ちょっと勿体無い。というか、「今の時点では、自分は活字が苦手だ」という言い方の方がよりリアリティがある。明日の自分なんてわからないデスからね。

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お友達が分けてくれた、山菜。

こごみ
たらの芽
わさび菜